ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第二部 コゼット


     九 鈴をつけた男

 ジャン・ヴァルジャンは庭にいる男の方へまっすぐに進んで行った。彼はチョッキの隠しにはいっていた貨幣の包みを手に握っていた。

 男は顔を下に向けて、彼がやって来るのを知らなかった。大股(おおまた)に飛んで行ってジャン・ヴァルジャンはすぐ彼の所へ達した。

 ジャン・ヴァルジャンはそのそばに行って叫んだ。

「百フラン!」

 男はびくりとして目を上げた。

「百フランあげる、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「もし今夜私を泊めてくれるなら!」

 月の光はジャン・ヴァルジャンの狼狽(ろうばい)した顔をまともに照らしていた。

「おや、あなたですか、マドレーヌさん!」と男は言った。

 そんな夜ふけに、不思議な場所で、その見も知らぬ男から、マドレーヌという名をふいに言われたので、ジャン・ヴァルジャンは思わずあとにさがった。

 彼は何でも予期してはいたが、そのことばかりは全く思いがけないことだった。彼にそう言った男は腰の曲がった跛の老人で、ほぼ百姓のような着物をきて、左の膝(ひざ)に皮の膝当てをつけ、そこにかなり大きな鈴をぶら下げていた。その顔は影になっていて見分けられなかった。

 そのうちに老人は帽子をぬいで、震えながら叫んだ。

「まあ、マドレーヌさん、どうしてここへきなすった? いったいどこからおはいりなすった? 天から降ってでもきなすったかね。そうそう、あなたが降ってきなさるなら、天からに違いない。そしてまたその様子は! 襟飾(えりかざ)りも、帽子も、上衣も着ていなさらない。知らない人だったら魂消(たまげ)てしまいますよ。まあこの節は聖者たちも何と妙なことをなさることやら。だがまあどうしてここへおはいりなすったかね。」

 その言葉は引き続いて出てきた。田舎者(いなかもの)の早口で少しも不安を与うるものではなかった。ただ質朴な正直さと呆然(ぼうぜん)自失との入り交じった調子だった。

「君はだれですか、そしてこれはどういう家ですか。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。

「まあ何ということだ!」と老人は叫んだ。「私はあなたからここに入れてもらった男で、この家はあなたが私を入れて下さった所ですよ。ええ私がおわかりになりませんかな。」

「わからない。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「どうして君は私を知ってるんです。」

「あなたは私の生命(いのち)を助けて下さった。」と男は言った。

 男は向きを変えた。月の光が彼の横顔を照らし出した。そしてジャン・ヴァルジャンはフォーシュルヴァン老人を見て取った。

「ああ、君だったか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「なるほど思い出した。」

「それで安堵(あんど)しましたよ!」と老人は恨むような調子で言った。

「そしてここで何をしてるんです。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。

「なあに、瓜(うり)を囲ってやってるんですよ。」

 ジャン・ヴァルジャンが近寄ってきた時、フォーシュルヴァン老人は実際手に防寒菰(ぼうかんこも)のはじを持っていて、それを瓜畑(うりばたけ)の上にひろげてるところだった。彼は一時間ばかり前から庭に出ていて、既に多くの菰をひろげてしまっていた。ジャン・ヴァルジャンが物置きの中からながめた彼の変な動作は、そういうことをしてるためだった。

 彼は続けて言った。

「私は考えたんですよ。月はいいし、霜はおりるだろう、どれひとつ瓜に外套(がいとう)をきせてやろうかって。」そして彼はジャン・ヴァルジャンを見て高く笑いながらつけ加えた。「あなたにもそうしてあげなければいけませんかな。だがいったいどうしてここにきなすったかね。」

 ジャン・ヴァルジャンは、今自分はこの男から知られている、少なくともマドレーヌという名前で知られている、ということを感じて、こんどは用心してしか話を進めなかった。彼は種々なことを尋ねてみた。不思議にも役割が変わってしまったかのようだった。今や尋ねかけるのは闖入者(ちんにゅうしゃ)なる彼の方であった。

「いったい君が膝(ひざ)につけてる鈴は何かね。」

「これですか、」とフォーシュルヴァンは答えた、「これは人がよけるようにつけてるんですよ。」

「なんだって、人がよけるように?」

 フォーシュルヴァン老人は妙な瞬(まばたき)をした。

「なにね、この家には女ばかりきりいないんです。大勢の若い娘さんたちですよ。私と顔を合わすのが険呑(けんのん)だと見えましてね、鈴で知らしてやるんですよ。私が行くと、皆逃げていきます。」

「これはどういう家かね。」

「ええ! 御存じでしょうがね。」

「いや、知らないんだ。」

「私をここの庭番に世話して下すってながら!」

「まあ何にも知らないものとして教えてくれ。」

「それじゃあね、プティー・ピクプュスの修道院ですよ。」

 ジャン・ヴァルジャンは思い出した。偶然にも、言い換えれば天意によって、彼はまさしくサン・タントアーヌ街区のその修道院に投げ込まれたのだった。そこには、車から落ちて不具になったフォーシュルヴァン老人が、彼の推薦で二年前から雇われていた。ジャン・ヴァルジャンは独語(ひとりごと)のように繰り返した。

「プティー・ピクプュスの修道院!」

「そうですよ。だがいったい、」とフォーシュルヴァンは言った、「マドレーヌさん、あなたはどうしてここにおはいりなすったかね。あなたは聖者には違いないが、それでも男なんで、そしてここには男はいっさい入れないんですがね。」

「君もここにいるじゃないか。」

「私だけですよ。」

「それにしても私はここに置いてもらわなければならないんだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。

「それはどうも!」とフォーシュルヴァンは叫んだ。

 ジャン・ヴァルジャンは老人に近寄って、重々しい声で彼に言った。

「フォーシュルヴァン爺(じい)さん、私は君の生命(いのち)を助けたんだ。」

「それはもう私から最初に申したことですよ。」とフォーシュルヴァンは答えた。

「それでは、昔私が君にしてやったとおりのことを、今日は君が私のためにしてくれることができるのだ。」

 フォーシュルヴァンはそのしわよった震える手のうちにジャン・ヴァルジャンの頑丈(がんじょう)な両手を握りしめ、口もきけないようにしばらく無言で立っていた。そしてついに叫んだ。

「おう、少しでも御恩報じができれば、それは神様のお引き合わせです。私があなたの生命を助ける! ああ市長さん、何なりとこの爺におっしゃって下さい!」

 美しい喜びが、その老人の姿を一変さしたようだった。その顔からは光がさしてるかのように思われた。

「いったい何をせよとおっしゃるんですかね。」と彼は言った。

「それは今に言う。だが君は室(へや)を持ってるかね。」

「向こうに一軒建ての小屋を持っています。こわれた元の修道院の後ろで、だれの目にもかからぬ引っ込んだ所ですよ。室は三つあります。」

 なるほどその小屋は、廃屋の後ろに隠れていて、だれの目にもつかないようになっているので、ジャン・ヴァルジャンは気づかなかったのである。

「よろしい。」ジャン・ヴァルジャンは言った。「では君に二つの頼みがある。」

「何ですな、市長さん。」

「第一には、君が私の身上について知ってることをだれにも言わないということ。第二には、これ以上何も聞きただそうとしないこと。」

「よろしいですとも。私はあなたが決して間違ったことはなさらぬのを知っていますし、あなたはいつも正しい信仰の方だったのを知っています。それからまた、私をここに入れて下すったのもあなたです。あなたのお考えのままです。私は何でもします。」

「それでいい。では私といっしょにきてくれ。子供を連れに行くんだから。」

「へえ、子供がおりますか!」とフォーシュルヴァンは言った。

 彼はそれ以上一言も言わなかった。そして犬が主人の後ろに従うようにジャン・ヴァルジャンのあとについていった。

 それから三十分とたたないうちに、コゼットは盛んな火に当たってまた血色がよくなり、老庭番の寝床の中に眠っていた。ジャン・ヴァルジャンは元どおり襟飾(えりかざ)りをつけ上衣を着ていた。壁越しに投げ込まれた帽子も見つけて拾ってきた。ジャン・ヴァルジャンが上衣を引っ掛けている間に、フォーシュルヴァンがはずした鈴のついた膝当(ひざあ)ては、もう負いかごのそばの釘(くぎ)に掛けられて壁を飾っていた。二人の男はテーブルに肱(ひじ)をついて火にあたった。テーブルの上にはフォーシュルヴァンの手で、チーズの一切れと黒パンとぶどう酒の一びんとコップ二つとが並べられていた。そして老人はジャン・ヴァルジャンの膝に手を置いて言っていた。

「ああ、マドレーヌさん、あなたは私がすぐにはわかりませんでしたな。あなたは人の生命(いのち)を助けておいて、その人を忘れてしまいなさる。それはよろしくありません。助けられた者は皆あなたを覚えています。があなたは、まあ恩知らずですな!」




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