七 非難のうちになすべき注意
歴史と哲学とは、永久のそしてまた同時に単純なる義務を有している。すなわち、司教カイアファス、法官ドラコ、立法者トリマルキオン、皇帝チベリウス、などと戦うことである(訳者注 キリストを定罪せしめしユダヤの僧侶、酷薄なるアテネの法官、苛酷なるローマの立法官、残忍なるローマ皇帝)。それは明瞭(めいりょう)で直截(ちょくせつ)で公明であって、何らの疑雲をも起こさせないことである。しかしながら、隔離生活の権利は、その障害と弊害とをもってしてもなお、確認され許容されんことを欲するものである。修道生活は人間の一問題である。
修道院、その誤謬(ごびゅう)のしかも無垢(むく)の場所、謬迷(びゅうめい)のしかも善良なる意志の場所、無知のしかも献身の場所、苦難のしかも殉教の場所、それについて語る時には、ほとんど常に然(しか)りと否とを言わざるを得ない。
修道院、それは一つの矛盾である。その目的は至福、その方法は犠牲。修道院は実に、結果として極度の自己棄却を持つ極度の自我主義である。
君臨せんがために王位を捨つる、それが修道院制の箴言(しんげん)であるように思われる。
修道院のうちにおいては、人は享楽せんがために苦業する。死を書き入れた手形を振り出す。天の光明を地上のやみに振り換える。修道院のうちにおいては、天国を相続するの前金として地獄が受け入れられている。
面紗(かおぎぬ)や道服などの着用は、永遠をもって報いられる自殺である。
かくのごとき問題を取り扱うには、嘲笑(ちょうしょう)はその場所を得ないように吾人には思われる。善も悪も、すべてが真剣なのである。
正しき人も眉(まゆ)をしかめることはある、しかし決して悪意ある微笑はもらさない。吾人は憤怒を知っている、しかし悪念を知らないものである。
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