ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第二部 コゼット


     七 札をなくすなという言葉の起原

 ジャン・ヴァルジャンがはいっていた棺の上の方では次のようなことが起こったのである。

 棺車が立ち去った時、そして牧師と歌唱の子供とがまた馬車に乗って帰って行った時、墓掘り人から目を離さなかったフォーシュルヴァンは、墓掘り人が身をかがめて、うずたかい土の中にまっすぐにつきさしてある(くわ)を手に取るのを見た。

 その時フォーシュルヴァンは最後の決心をした。

 彼は墓穴と墓掘り人との間につっ立ち、両腕を組んで、そして言った。

「金は私(わし)が払う。」

 墓掘り人は驚いて彼をながめ、そして答えた。

「何のことだよ?」

 フォーシュルヴァンは繰り返した。

「金は私が払う。」

「何さ?」

「酒だよ。」

「何の酒だ?」

「アルジャントゥイュだ。」

「アルジャントゥイュってどこにあるんだ。」

「ボン・コアンの家(うち)にある。」

「なんだばかにするない!」と墓掘り人は言った。

 そして彼は一すくいの土を棺の上にほうり込んだ。

 棺はうつろな音を返した。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴の中にころげ落ちそうな気がした。喉(のど)をしめられたようなしわがれ声を交じえて彼は叫んだ。

「おい、ボン・コアンの戸がしまらないうちにさ!」

 墓掘り人はまた(くわ)で土をすくった。フォーシュルヴァンは言い続けた。

「私が払う。」

 そして彼は墓掘り人の腕をつかんだ。

「まあきいてくれ。私は修道院の墓掘りだ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みに行ってからにしようじゃないか。」

 そう言いながらも、絶望的にしつこく言い張りながらも、彼は悲しい考えを心のうちに浮かべていた。「そして酒は飲むとしても、果して酔っ払うかしら?」

「なあに、」と墓掘り人は言った、「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事のあとだ、前はいけない。」

 そして彼は(くわ)を動かした。フォーシュルヴァンはそれを引き止めた。

「六スーのアルジャントゥイュだよ。」

「またか、」と墓掘り人は言った、「鐘撞(かねつ)きみたいな奴(やつ)だな。いつも同じことばかりぐずってやがる。いいかげんにしろよ。」

 そして彼は第二の一すくいをほうり込んだ。

 フォーシュルヴァンはもう自分で自分の言ってることがわからないほどになっていた。

「まあ一杯やりにこいったら、」と彼は叫んだ、「金は私が払うんだから。」

「赤ん坊を寝かしてからさ。」と墓掘り人は言った。

 彼は第三の一すくいをほうり込んだ。

 それから彼はまたを土の中に突き入れてつけ加えた。

「おい今夜は冷えるぞ。何もかぶせないでゆくと、死骸が泣き出して追っかけて来るぜ。」

 その時墓掘り人はで土をすくいながら身をかがめた、そして上衣のポケットの口が大きく開いた。

 フォーシュルヴァンの茫然(ぼうぜん)とした目つきは機械的にその中に止まって、そこにすえられた。

 太陽はまだ地平線の向こうに落ちていなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口を開いたポケットの底に何やら白いものが見て取られた。

 ピカルディーの田舎者(いなかもの)の目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンの瞳(ひとみ)をよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。

 墓掘り人が(くわ)で土をすくうのに一心になって気づかないうちに、彼はうしろからそのポケットの中に手を差し入れて、底にある白いものを引き出した。

 墓掘り人は第四の一すくいの土を墓穴の中に送った。

 彼が第五にまた一すくいするためふり返った時、フォーシュルヴァンは落ち着き払ってその顔をながめ、そして言った。

「時にお前さんは、札を持ってるかね。」

 墓掘り人はちょっと手を休めた。

「何の札だ?」

「日が入りかかってるよ。」

「いいさ、おはいんなさいとして置くさ。」

「墓地の門がしまるよ。」

「だから?」

「札は持ってるかと言うんだ。」

「ああ俺(おれ)の札か!」と墓掘り人は言った。

 そしてポケットをさぐった。

 一つのポケットをさぐって、またも一つのをさぐった。それからズボンの内隠しを、一方をさがし一方を裏返した。

「ないぞ。」と彼は言った。「札がない。忘れてきたのかな。」

「十五フランの罰金だ。」とフォーシュルヴァンは言った。

 墓掘り人は草色になった。青白い男が更に青くなると、草色になるものだ。

「何ということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金!」

「五フラン銀貨三つだ。」とフォーシュルヴァンは言った。

 墓掘り人は(くわ)を取り落とした。

 こんどこそはフォーシュルヴァンの番になった。

「なにお前さん、」とフォーシュルヴァンは言った、「そう心配することはないさ。首でもくくって墓を肥やそうというわけじゃあるまいしね。十五フランは十五フランだ。それにまた払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、私は古狸(ふるだぬき)だ。何もかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が入りかかってることだけは。向こうの丸屋根に落ちかかってる。もう五分とたたないうちに墓地はしまるだろう。」

「そうだ。」と墓掘り人は答えた。

「これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。」

「そのとおりだ。」

「そうすれば十五フランの罰金だ。」

「十五フラン。」

「だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。」

「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。」

「急げばすぐに門を出るだけの時間はある。」

「そうだ。」

「門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸(しがい)を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。」

「それで俺(おれ)は助かる。」

「早く行けよ。」とフォーシュルヴァンは言った。

 墓掘り人は夢中に感謝して、彼の手を取って振り動かし、そして駆け出していった。

 墓掘り人が茂みの中に見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音が聞こえなくなるまで耳をすまし、それから墓穴の方へ身をかがめて、低い声で言った。

「マドレーヌさん!」

 何の答えもなかった。

 フォーシュルヴァンはぞっとした。彼は墓穴の中におりるというよりも、むしろころげ込んで、棺の頭の方に身をなげかけ、そして叫んだ。

「そこにおいでですか。」

 棺の中はひっそりとしていた。

 フォーシュルヴァンは震え上がって息もつけなかったが、それでも鋭利な鑿(たがね)と金槌(かなづち)とを取って、上の板をはねのけた。ジャン・ヴァルジャンの顔がほの暗い中に見えたが、目は閉じ、色は青ざめていた。

 フォーシュルヴァンの髪の毛は逆立った。彼はまっすぐに立ち上がり、それから穴の壁にもたれかかり、気を失って棺の上に倒れんばかりになった。彼はじっとジャン・ヴァルジャンをながめた。

 ジャン・ヴァルジャンは色を失って身動きもしないで、そこに横たわっていた。

 フォーシュルヴァンは息ばかりのような弱い声でつぶやいた。

「死んでいなさる!」

 それから立ち直って、両の拳(こぶし)が肩に激しくぶっつかったほど急に両腕を組んで、叫んだ。

「助けてあげたのがこんなことに!」

 そしてあわれな老人はむせび泣きながら、独語をはじめた。独語は自然のうちにないものだと思うのは誤りである、心の激しい動乱はしばしば高い声で語り出す。

「メティエンヌ爺(じい)さんが悪いんだ。あの爺(じじい)め、なぜ死んだんだ。思いも寄らない時にくたばるなんてことがあるものか。マドレーヌさんを殺したのは奴(やつ)だ。マドレーヌさん! ああ棺の中にはいっていなさる。もう逝(い)ってしまわれた。もうだめだ。――いったいこれは何て訳のわからないことだ。ああ、どうしよう! 死んでしまわれた! ところであの娘さん、あれをどうしたもんだろう。果物屋(くだものや)の上(かみ)さんは何と言うだろう。こんな方がこんなふうに死なれる、そんなことがあるもんだろうか。私の車の下に身を投げ入れて下さった時のことを思うと! マドレーヌさん、マドレーヌさん! 息がつまったんだ。私の言ったとおりだ。私の言うことを聞きなさらなかったからだ。まあ何という悪戯(いたずら)だ! 死になすった、あのりっぱな方が、善人のうちでも一番善人の方が! そしてあの娘さん! 第一私はもうあそこへは帰られん。ここにこのままいよう。こんなことをしでかしてさ! 年寄りが二人いてこんなばかをやるって法があるもんか。だが第一、あの方はどうして修道院の中へはいりなすったんだろう。それがそもそも事の初まりだ。あんなことはするもんじゃない。マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌ、マドレーヌ様、市長様! 私の言うことも聞こえないんだ。さあ何とかして下さらなけりゃ!」

 そして彼は髪の毛をかきむしった。

 遠く木立ちの中に、物のきしる鋭い音が聞こえた。墓地の鉄門がしまる音だった。

 フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンの上に身をかがめた。そして突然、彼ははね上がって、墓穴の中でできるだけあとにしざった。ジャン・ヴァルジャンは目を開いて、彼をじっと見つめていた。

 死を見るのは恐ろしいことであるが、蘇生を見るのも同じくらい恐ろしいことである。フォーシュルヴァンはその極度の感動に、度を失い、荒々しくなり、まっさおになり、石のようになって、生者に対してるのか死人に対してるのかも自らわからず、自分の方を見つめてるジャン・ヴァルジャンの顔を見入った。

「私は眠ってしまった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。

 そして彼は半身を起こした。

 フォーシュルヴァンはひざまずいた。

「あああ! ほんとにたまげてしまった。」

 それから彼は立ち上がって叫んだ。

「ありがたい! マドレーヌさん。」

 ジャン・ヴァルジャンは気絶していたにすぎなかった。外の空気が彼をさましたのである。

 喜悦は恐怖の裏である。フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンと同じくらいに我に返るのには骨が折れた。

「死になすったのではなかったんだな! ほんとにあなたは人が悪い。生き返ってきなさるようにどんなにか呼んだんですよ。あなたが目を閉じていなさるのを見て、ああ息がつまったんだなと思いましたよ。私はほんとに気が気でなかった。まったくの気違いになりそうでしたよ。ビセートルの癲狂院(てんきょういん)にでも入れられたかも知れませんよ。あなたが死なれたら、私はどうなると思います? そしてあなたの娘さんは! 果物屋(くだものや)の上さんは訳がわからなくなるでしょう。子供を預けておいて、そして祖父(おじい)さんが死んでしまう。まあなんて話なんでしょう。ほんとになんてことでしょう。ああ、あなたは生きていなさる! ほんとにありがたいことだ。」

「私は寒い。」とジャン・ヴァルジャンは言った。

 その一言でフォーシュルヴァンはすっかり現実に呼び戻された。事情は切迫していた。二人の者は我に返ってからも、なぜともわからず心が乱れていた。そして彼らのうちには、その陰惨な場所のためにある言い知れぬ感情が起こっていた。

「早くここを出ましょう。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。

 彼はポケットの中をさぐって、用意していた壜(びん)を取り出した。

「だがまあ一口おやりなさい。」と彼は言った。

 外気に次いでその壜(びん)がすべてをよくなした。ジャン・ヴァルジャンは火酒を一口のんで、すっかり元気になった。

 彼は棺から出た。そしてフォーシュルヴァンに手伝って再びその蓋(ふた)を打ちつけた。

 二、三分後には、二人とも墓穴の外に出ていた。

 それにまたフォーシュルヴァンも落ち着いていた。彼はゆっくり構えた。墓地はしまっている。墓掘り人グリビエが来る気づかいはない。その「新参者」は家にいて札をさがし回ってる。そして札はフォーシュルヴァンのポケットの中にあるから、家で見つかるわけはない。札がなければ墓地の中に戻って来ることはできないのだ。

 フォーシュルヴァンは(くわ)を取り、ジャン・ヴァルジャンは鶴嘴(つるはし)を取り、二人して空棺を埋めた。

 墓穴がいっぱいになった時、フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに言った。

「さあ行きましょう。私はを持ちますから、あなたは鶴嘴をお持ちなさい。」

 日は暮れていた。

 ジャン・ヴァルジャンは動き回ったり歩いたりするのに少し苦しかった。棺の中で彼は身体を硬(こわ)ばらし、いくらか死体のようになっていた。その四枚の板の中で、死の関節不随にとらわれていた。いわば墓の中から脱け出さなければならなかった。

「あなたはしびれていなさる。」とフォーシュルヴァンは言った。「それに私まで跛者ときています。そうでなけりゃもっと早く歩けますがな。」

「なあに、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「少しゆけば私の足はよくなるよ。」

 彼らは棺車の通った道から立ち去っていった。しまった鉄門と門番の小屋との前まできた時、墓掘り人の札を手に持っていたフォーシュルヴァンは、その札を箱の中に投げ込んだ。すると門番は綱を引き、門が開き、二人は外に出た。

「すっかりうまくいった!」とフォーシュルヴァンは言った。「あなたの考えは実にえらいもんだ、マドレーヌさん。」

 彼らはヴォージラールの市門を、ごく平気で通りすぎた。墓地の付近では、(くわ)と鶴嘴(つるはし)とはいずれも通行券と同様である。

 ヴォージラール街には人影もなかった。

「マドレーヌさん、」とフォーシュルヴァンは歩きながら人家の方を見上げて言った、「あなたは私より目がいい。八十七番地というのを見て下さい。」

「ちょうどここがそうだよ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。

「往来にはだれもいません。」とフォーシュルヴァンは言った。「鶴嘴を私に下さい、そしてちょっと待っていて下さい。」

 フォーシュルヴァンは八十七番地の家にはいってゆき、いつも貧乏のために屋根裏にばかり行く本能から、ずっと上まで上っていって、ある屋根部屋の扉(とびら)を暗闇(くらやみ)の中にたたいた。中からだれか答えた。

「おはいり。」

 それはグリビエの声だった。

 フォーシュルヴァンは扉を押し開いた。墓掘り人の住居は、あわれな人たちの住居にいつも見るように、道具がなくてしかも取り散らかした屋根裏だった。荷造り用の箱みたいなものが――おそらく棺かも知れないが――戸棚(とだな)の代わりになっており、バタの壺(つぼ)が水桶(みずおけ)の代わりとなり、一枚の藁蒲団(わらぶとん)が寝床となり、床板(ゆかいた)がそのまま椅子(いす)ともテーブルともなっていた。片すみには、古い一片の絨毯(じゅうたん)のぼろの上に、やせた一人の女と大勢の子供とが一かたまりになっていた。そのあわれな部屋の中には、すべてかき回された跡が残っていて、一挙に地震でもきたようなありさまだった。物の蓋(ふた)は取りのけられ、ぼろはまき散らされ、壜(びん)はこわされ、母親は泣いた様子であり、子供らはたぶんなぐられたのであろう。すべて、いら立ち熱中した穿鑿(せんさく)の跡が見えていた。言うまでもなく、墓掘り人は狂気のようになって札をさがし回り、そして女房から壜に至るまで室の中のあらゆるものに紛失の責を負わしたのである。彼はもう自暴自棄の様子をしていた。

 しかしフォーシュルヴァンは早く事件の結末ばかりを急いでいて、成功のその悲しい半面を目にも止めなかった。

 彼は中にはいって言った。

「お前さんの鶴嘴(つるはし)と(くわ)を持ってきたよ。」

 グリビエは呆然(ぼうぜん)として彼をながめた。

「ああ君か。」

「そして明日(あす)の朝、墓地の門番の所へ行ってみなさい、お前さんの札があるから。」

 彼はと鶴嘴とを下に置いた。

「いったいどうしたと言うんだ。」とグリビエは尋ねた。

「なあに、お前さんはポケットから札を落としたのさ。お前さんが行ってしまってから、地面に落ちてるのを私は見つけたんだ。死骸(しがい)は埋めるし、墓穴はいっぱいにするし、お前さんの仕事はすっかりしておいた。札は門番が返してくれるだろう。十五フラン払わんでもいいよ。わかったかね。」

「そいつあありがたい!」とおどり上がってグリビエは叫んだ。「こんどは、俺(おれ)が酒の代を払うよ。」(訳者注 章題の札をなくすなとは狼狽するなという意味にもなる)




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