戸坂潤 カントと現代の科学

 

カントと現代の科学

戸坂潤

J. v. Kries の『カント、及び現代の自然研究に対するカントの意味』の要領を紹介して見ようと思う。之はカント二百年記念に際して出版されたカント文献の内でも偉出したものの一つに数えられそうであるが、論じられた諸問題には豊富な内容的知識が含まれていると共に吾々にとって寧ろ興味ある種々の疑問が無くはないかと考えられる。私は之に対して批評を下すことは敢てしないがその代り之を出来るだけ簡単に要約して読者への問題としたいと考える。

一 自然研究家としてのカント

カントは独り哲学界に不朽の功績を残したばかりではなく自然科学者としても重大な位置を占めるものである。その最初の論文「活力の真の計算の考え」はデカルトとライプニツとの相反発すると考えられた二つの見方に就いて論じたものであるが、其は独自の思想という点に於けるよりも寧ろ厳密な鋭利な或いは煩瑣とも云うべき批判の傾向と能力とを示したという点に於て価値があるであろう。之に反して「地球の回転は時の経つに従って其の速さを変えるか」に就いてのベルリン・アカデミーに提出された懸賞論文はカントの独創的天才を示すものである。カントによれば月及び太陽の引力によって引き起こされる潮の満干の運動が地球の回転の速さを緩める事が明らかとなる。たとえその計算があまり厳密ではなかったにしても、又たとえ速さがこの外の更に多くの原因によって緩まるということをカントは注意しなかったにしても、カントが簡単な疑うことの出来ぬ力学的関係の考察から出発したという点での此の論文の価値は依然として変るものではない。さて自然科学者としてのカントをして最も有名ならしめるものは「一般自然及び天体論」に述べられた所謂カント・ラプラス仮説である。凡ゆる遊星は略々同一平面の内に同一の方面を以て運動し太陽も又この平面に垂直な軸の回りを同じ方向に回転するが、カントによればかかる偶然とも云うべき一致は太陽と遊星とが本来空間に拡っていた同一の物質であり、後に至って始めて分離したものであるということを示すに外ならない。勿論カントが太陽系の成立を説明して引力と排力とが密度の大きい多数の塊を造り同時に又全体に回転運動を与えるとしたのは誤りである。後者は力学上不可能でありラプラスの如きは回転運動は始めから与えられたものと見た。併し此の点を除いてはたとえ今日に至るまで天体の発達史の確実な見方が得られないためにこの仮説が如何なる範囲に於て正当であるかを決定することは出来ぬとしても、この仮説の核心そのものの正しい事は疑うべくもない。風の理論其の他に関するカントの仕事を数え尽すことは茲では不可能であるであろう。ただ最後に生物界に就いての研究を一言しなければならぬ。カントは嘗て有機体の形態が不変であるか変化し得るかの問題を考察したことがあるがそれは「種々なる人種に就いて」にも論じられてある。又後に至って今日の進化論の思想を単に漫然とではなく実に疑う余地のない程明らかに述べている。ただそれがあまり知られないのはカントがこの問題を独立に論ぜずただ判断力批判の処々で触れているに過ぎないためでもあろう。何れにしてもカントの自然科学上の仕事の特徴を明らかにすればそれは彼が主として思想家であったという処にある。而も彼は与えられたる事実を鋭利に確実に追求する思想家であるばかりではなく又自由な創造の想像力によって広範な世界に住し既知のものから前人未発の真を見出して科学の研究に新しい刺戟を与える底の思想家であったということにあると思う。

二 カントの数学の説

カントの最も一般的な思想の一つは吾々の精神生活の内に這入る凡てのものは吾々の意識の内に与えられねばならぬということである。「主観性」とは之である。然るに吾々の意識の見渡し得ない程の多様の内吾々の知覚の或る特殊のものは常に不変であり、経験の或る特徴は必然性と厳密な一般性とを持っている。さて感性知覚の空間的な形式は之に属するものであり、カントはまずかかる意味に於て空間はアプリオリな必然的表象であるという。吾々はかかるアプリオリをアプリオリの概念の心理発生的解釈と呼ぶ。併しこのアプリオリテートを個々の対象が互いに順序づけられて現われる方即ち視覚の optische Lokalisation と考えるならばヘルムホルツがカントを攻撃したようにかかるアプリオリテートは明らかに否定されねばならぬ。吾々の今アプリオリテートと呼ぶものは之とは異って一般に感性的知覚は空間的な形式をとるという意識の性質、即ち空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わすということでなければならぬ。併しカントのアプリオリは単に之だけでは尽されない。寧ろ多くのカント学徒によればカントのアプリオリ説は心理発生的な意味でのアプリオリではなくして論理的な関係を取り扱うものなのである。吾々の知識の種々なる部分の間にその妥当の論理的な関連があるということを主張するものなのである。それ故ある命題に論理的なアプリオリテートがあるとはそれが経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして他種の明白さを持っているということである。かかる意味でのアプリオリに解すればもはや概念や表象のアプリオリテートなどとは云うことは出来ない。論理的アプリオリテートはただ判断に就いてのみ云い得ることである。それ故ただ空間に関する一定の命題即ち幾何学の公理のみが論理的アプリオリテートを持ち得る筈である。そしてこの公理の持つ明白さは空間表象の性質そのものに基く明白さなのである。それ故この場合の判断は、分析的ではなくして、Reflexionsurteil と謂われるであろう。吾々はかくして空間表象のアプリオリテートの二種を厳に区別せねばならぬ。

空間表象と同じく時間表象に就いても継起するものから区別された時間的な規定、あらゆる出来事の不変な基礎となる時間のアプリオリテートを考えることが出来る(心理発生的)。それと共に又経験の特殊な内容から論理的に独立な命題を考えることも出来る。勿論この命題は分析判断と呼ばれるものではなくして時間表象の特殊の性質にその基礎を得る反省判断である。例えば過去と未来への無限の同様な拡りとか、それが完全に同様な部分から成立しているとか、はそれである(論理的)。

数の表象に就いては数はまず第一に固定した与えられた意識内容であり数えられるものの内容と共に変り得ないものである(心理発生的)。次に数論の公理的な基礎と雖も数の間の関連と関係との云い表わし即ち反省判断と見られねばならぬ。例えば[#ここから横組み](a+b)+1=a+(b+1)[#ここで横組み終わり]という命題は順次の関係と同等の関係との関連を云い表わすものである(論理的)。ジョン・スチュアート・ミルの如く数論の命題をば実在界の対象を数えることから帰納的に一般化された経験の成果と見るのも、多くの人々のなすようにそれを純論理的な性質に基くとして分析判断の特殊の形と見るのも、数論の論理的な基礎が数の表象それ自身とその心理的な性質との内に求められねばならぬことを忘れた点に於て不当であると思われる。

既に述べたように感性知覚が感覚とかの不変なる表象(数、時間、空間)との総合を意味する以上数学が一般にかくの如き反省判断であるならば、数学の対象たるかかる不変の内的関係及び関連は凡て知覚に適応せねばならぬことは明らかである(カントが数学は経験を支配するという時、カントは実は経験と知覚とを相即しているのであるがこの相即は少くとも疑問でなければならぬ)。

カントが「外感」の形式と呼ぶものは感性知覚が常に空間的な関係に於て与えられるということを意味するのであるがそれには未だ個々に就いて知覚の空間的な順序が何であるかは考えられていない。直接に与えられたる空間関係の知覚は考えられていない。今カントにこの点を感覚生理学の立場から補うならば、直接に与えられたる知覚の形式としての空間及び時間と、所謂客観的に現実されたる実在の表象乃至思惟としての、終局的な思惟上の実在認識の形式としての時間及び空間とを区別し得るであろう。カントは知覚の感覚生理学的内容をその考察の内に入れる機会を持ち得なかったが故にこの両者の区別を明らかにすることが出来なかったと云わねばならぬ。而して一般にかくの如く直接の知覚と区別されたる終局的に思惟されたる(客観的に実現されたる)ものによって実在認識の全体的な形式「全体的な世界形像」が成立するのである。而して実現されたるものとはある一般的な合法則性に対応するものを云うのである。それ故実在の認識とは事実上与えられた体験を合法則的に順序づけられた全体の一部分として云い表わし又理解するこの「全体的世界形像」のことに外ならぬ。それ故吾々が感覚生理学の事実をとり入れる時カントの空間及び時間の思想の上に立ちながら吾々はカントの説を超えて行かねばならぬものである。

理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きものがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味があるということを否定することにはならぬであろう。自然科学的空間説を困難ならしめるものは空間表象が何等固定した完結した者を意味しないという事実である。それ故観察すべき出来事を理解するには吾々は実在界の空間的な表象を全然捨て去って全然抽象的な数学的な形式に拠らねばならぬ。かくしてのみ吾々は真に終局的な実在認識としての「全体的世界形像」に到達し得るのである。然らば時間表象はどうであるか。物理的世界形像が仮定する処の吾々は外界を直接に認識し得るということから、自然科学は認識に現われないものを取扱うことは出来ぬということが引き出されるのであるが相対性原理は正に之によって成立する。而してミンコーフスキーは抽象的な四次元座標をとって三つを空間に一つを時間に配した。即ち之によれば世界形像から時間表象が除外されて抽象的な軸によって置き換えられるのであるからそれは恰も吾々の主張に一致するかの如く見えるであろう。併しカントも云う通り時間は外界の関係が与えられる形式であるのみならず心理的体験の形式である。それ故時間そのものを含まない物理的世界形像はなお断片又は部分に過ぎぬであろう。ミンコーフスキーの世界は終局的な全体的な世界形像とは考えられないと思う。それ故又併し時間表象は世界形像から或る範囲に於て除かれることが出来るということは謂われ得るであろう。之を要するに吾々の実在認識の最高課題は事実を統一する合法則的な順序を見出すことである。即ち一般的な命題を見出すことである。而もかかる一般的な命題はただ吾々が全体的世界形像と呼ぶ処の、実在の関係をある一定の「概念的な材料」の内で考えることによって始めて可能である。即ち空間表象や又はある範囲では時間表象を除き去った客観的に実現されたものとしての時間及び空間からなる処の時空世界形象によるのでなければならぬ。而もかかる時空形象は座標と云うが如き抽象的な概念によって置き換えても何の変りもある筈はない。それ故実在は厳密に数学的な概念によってのみ理解し得るであろう。

カントが時間及び空間を吾々に固有な性質によって与えられた表象形式でありそしてそれに特有の性質によって一義的な必然的に明白な命題が成立すると説いた事は反対すべくもない。併し近代の科学に於て変更された処は実在的な対象の空間的な秩序や実在的な出来事の時間的な秩序を認識する仕方にあるであろう。即ち相対性原理の教えるように吾々は客観的に与えられた関係を直接に知り得るのではなく有限な速度の光線を介して認識するのであるが之は従来の実験物理学の信念と相容れない処であろう。併しカントの精神に従って築かれたる認識論によれば客観的な関係の厳密な意味での直接な認識はあり得ない。それ故此の変更によってカントに基く認識論は少しも動揺するものではない。ただカントは吾々の空間的な知覚が個々的に如何に決定されてあるかを問題としなかったまでであり吾々はただ之を補えば足りるのである。之に反して物理学の最近の発展は実在の思惟の形式から空間表象を又ある範囲では時間表象をも除き去って抽象的な或いは間接的な意味を有する座標を以て置き換えたという点に於てカントから離れると云わねばならぬ。併し之とても実在認識とはある関係を吾々に固有な主観性に与えられた形式によって云い表わすことであるというカントの根本精神に基くものと考えられる。ただ真にカントを離れる点は数学的概念を茲に応用するに際して多数の形式が可能であり又事実要求されるということに外ならぬ。即ち就中空間乃至時間的な規定を抽象的な量概念によって置き換えたが如きことはその一つであると考えられる。要するにカントと近代の物理学との多くの矛盾は実在認識の持つ二重の性質から説明出来るであろう。即ち直接の知覚と知的な思惟上の理解の仕方との二つである。カントは後者を眼中に置かなかったのであるが恰も之が近代の物理学の発達に相当するものでなければならぬ。併し又物理学が「直接に認識し得る」という誤謬に陥り易い時之を警戒するものはカントの時間及び空間の表象の思想でなければならぬ。

三 因果律

カントは第二比論に於て「継起する(存在し始める)ものは総て、それが或る規則に従って結果する処の何物かを予想する」というのであるが、かかる因果関係に於て特に一つのものをとり出してそれを原因と考えることは作為なくしては不可能である。そしてこのことは一義的な客観的意味を持つことは出来ない。吾々は寧ろある出来事に対して充足な理由をそれに先行する状態の全体の内に認めねばならぬ。或いはかく云えばある一定の原因に常にある一定の結果が伴うということは云えなくなるかの如く見えるであろう。併し因果律の重心は法則又は一般性の内にあるのである。それ故因果律を一般的に云い表わせば「ある瞬間に与えられたる関係 Verhalten とこの関係のその時点に固有な変化との間に合法則的な即ち一般的に見出し得る関連が成立する」と云ってよいであろう。私は之を因果律の発生論理的 nomologisch な解釈と名づける。然らばかかる関連は如何なる論理的な形式で云い表わされるのであるか。それは「同一の条件の下には同一の結果が起きる」という事である。併し実在界の全体が反覆出来ない以上、これは勿論ある一定の範囲に於ては同一の条件の下に同一の結果が起きるということである。併しかくしても同一の条件が繰りかえし得るということは厳密な意味に於て云うことは出来ない。普通類似の条件の下には類似の結果が起きると云われるのであるが、類似という如き徴標が甚だしく主観的な要素に依存するものである以上この云い表わし方は終局的なものとは考えられない。今出来事を一つの関数と見るならば関数を云い表わす方式は無数の場合に就いて夫々異った何物かを与えるものである事は、云うまでもない。関数関係は無数の個々の場合を統一的に云い表わすと共にその表現の内容と意味とは個々の場合の個別的な関係によって決定されるものに外ならぬ。それ故関数の力を借りることによってのみ以上の困難は除かれ得る。因果律は「あらゆる時点に於て与えられたる関係とその時点に固有な変化との間には合法則的な関連がありそれがこの変化をこの関係の関数として一義的に決定する」ものとして表現されるのである。私は之を因果律の発生論理的関数的な解釈と呼ぶ。

因果律の発生論理的な解釈に対して作用とか力とかいう概念によって因果律を規定しようとする考え方もあるのであるが吾々はかかる作用或は力を直接に知覚することは出来ないのであるから、もしそれがある関係を簡単に云い現わす説明法としてでないならば、それは吾々の認識の範囲を越えたものと云わねばならぬ。吾々の認識し得るものは何と云っても法則の概念による発生論理的解釈をとらせる。尤もキルヒホフなどが力学をば現象を「完全に最も簡単な形式で記載する」ものと定義して力や作用の概念を排斥したことはこの法則の概念に不当な付加物をさし入れることとなるであろう。元来「完全に」というもそれは吾々の認識能力の外に横たわることである。「簡単」というも力学は云わば直接に知り得る事実を簡単に云い表わすことをとり扱うのではなくして直接に与えられたるものを超えて一般化することであるからこの「簡単」は実は法則に帰するものでなければならぬであろう。併し因果律を以上の如く解釈してもそれは吾々の自然認識の一般的な形式を示すだけであってそれによってはまだ事実に対する因果律の意味は尽くされていない。合法則的に秩序づけられることを指し示す論理発生的解釈の外になお因果律の「本体論的」な規定が残されている。吾々はたとえ厳密な意味での法則に達しないまでも継起に就いて因果的と呼ばれるある秩序を近似値的に見出し得るであろう。俗に之をもなお法則と呼ぶならばそれは「Geschehen の法則」と呼んでよいであろう。

併しある個々の対象や出来事をある一定の結果の原因であると見る考え方は独り日常の知識のみならず科学的な認識に於ても行なわれる処である。吾々は何かある一定のものを特別の意味に於て原因として掲げる。即ち主なる原因として掲げる。そしてそれ以外の関係を条件と名づけるのである。併し何れを主原因とするかは厳密に客観的に与えられるのではなくただ主観的な観察の仕方が決定するものに外ならない。例えば特に重大なもの、即ち異常なるもの、新しく這入って来たもの、法律上の不法行為等が特に原因と考えられる。この場合もしそれが無かったならばこの結果は起きなかったであろうと思われるものが選ばれるのである。このような考え方は勿論厳密な概念に到達することは出来ぬとしても主なる関係を順次に追求することによって問題を明瞭に解決し得ることとなるであろう。

さてカントが継起するものは総てそれがある規則に従って結果する処のものを予想すると云う時継起の全体の個々の出来事に又先行するものの全体が個別的に区別されうる個々の関係にほごしうるということを暗々裏に予想している。それ故茲にはかの関数概念が見失われて了う。併し之に反してカントの因果律の重心が規則の概念にあるとすれば私が発生論理的解釈と呼んだ処のものは少くとも茲に考えられているわけである。吾々が超越的な不可認識の概念として排斥した作用の如き概念はカントに於ても除外されているのであるから。

因果律は時間表象を本質的な欠くべからざる要素として含むことはすでに明らかである(そしてそれ故時間空間的世界形象から抽象的な世界形象に移るにはある限界があるということが明らかとなった)。而して時間の形式は吾々に固有な精神の性質によって与えられる実在認識の形式である以上吾々の体験は総て時間的でなければならぬ。而も吾々は因果律に相当する規則又は秩序を持たぬ処の体験の過程を表象し得るであろう。それ故因果律を強制的に確信することは不可能であるかも知れない。併しそれと共に因果律が成立しないということを強制的に意識することも出来ない。何となればそのためには同一の条件の下に同一ならざる結果が起こるということを証明せねばならぬのであるが恰も吾々は条件を厳密に残りなく見渡すことはすでに述べた如く不可能であるから。因果律の確信を持つことが出来ぬということはそれが妥当しないということから厳に区別されねばならぬ。因果律にはそれに特有な論理的な位置がある。吾々はそれを特殊の自然法則と同一視することは出来ない。ヘルムホルツも云うようにそれはあらゆる自然認識の場合になされねばならぬ予想であると云わねばならぬ。カントが主張する因果律の先験性は正にこの妥当性に外ならない。普通精神は自由の領域と考えられるが茲にも因果律が行なわれることは精神をも死せる自然と斉しく見得る限り許されうる。まして生命現象の自然科学的研究に於ては因果律がそのまま行なわれねばならぬ。ドリーシュ等の主張する活力説と雖も因果的な考察に矛盾するものではない。成程因果律の厳密なる形は総ての瞬間の出来事はそれに直接に先行する瞬間から一般的な法則に従って起きるということであり、そしてかく一般的な法則に従うということを習慣上 Mechanismus と呼ぶのであるがそれは決して空間内の物体の運動を理解する仕方のかの、Mechanismus ではない。而も活力説はただ後者と相容れないというまでであって前者とは何等矛盾するものではない。それが矛盾すると考えられるのはメハニスムスの二義を混同することに基くものである。活力説に於ても因果律は妥当せねばならぬ。併し因果律は数学的であることを述べたがかかる数学的関数関係はそれとは全く異る活力説の概念材料に如何にして結び付き得るのであるか、もし因果律が関数関係としてのみ妥当することを許されるものであるならばこのことは到底不可能と云わねばならぬ。それ故今や吾々は因果律の数学的な概念に対してのみ可能であるような形式上厳密な妥当性をもはやあらゆる経験の不可欠の特徴であると云うことは出来ないであろう。ある点でかの最高の厳密さを欠いた経験否全然之を含まない経験ということも考え得ると思う。物理学に於ける量子論なども之であると考えられる。

近代の自然科学が因果律に対してそれに固有な特殊の位置を与えたということはカントの立場とよく一致することである。ただカントがその証明をば、吾々は至る処過去の経験なくしても因果律が妥当するかの如く事実上振舞い得るという事実に求めたことは、時間及び空間の表象に於けると同じくカントの精神が純論理的な見地に立ちながらもなおカントが妥当の問題と心理発生論的問題とを完全に区別しなかったことを示すものである。

四 生物の目的論的考察

吾々は目的と云えば第一に思惟するものによって欲せられたもの目論みられたものを考える。即ちそれは意志の概念に帰する。併し勿論之は生物の目的論的考察の対象とはならない。第二に考えられるものを私は「仮の合目的性」と呼び得るであろう。即ち有機的な組織は常にある一定の結果を現実するように出来ていて一定の目的のために組み立てられてある「かの如く」見えるということである。この仮の合目的性を如何にして説明し得るかは生物学の研究する処であるが併し之は一般的な自然科学的な研究の範囲の外にある者である。何となれば之は因果的合法則性に於てのみ説明されるものに外ならぬのであるから。この生物学的合目的性はなる程活力説を促すではあろうが併し因果的な考察に対して目的論的考察を対立せしめる理由は持たぬであろう。之に反して以上のように他の概念に帰する見方を全く離れて自立的な終局的な意味がこの目的概念に求められるかどうかを見る時吾々は全く別の事柄に逢着する。かくの如く目的概念に独立の意味を許す考え方は往々行なわれる処であり、それは因果的な見方と目的論的な見方とを対立せしめ、更に次の如く云って両者を結び付ける。即ち吾々は継起の過程をば任意に前へも後へも辿れるのであって後の出来事が前の出来事に依存すると見るのが因果的な見方であり之に反して前の出来事を現在の即ち後の出来事に依存すると見るのが有極的な finale 見方であるとする。併し因果的に見るということは後のものを前のものの関数を現わす法則として見ることに外ならぬのであるが思うにかかる法則は独り後のものを前のものの関数として現わすのみならず又前のものをも後のものの関数として一義的に決定するものでなければならぬ。それ故実は継起は前へも後へも同様に辿れるものなのである。現在から未来へ辿る所謂因果的な見方がそれに対立する見方よりもより多く行なわれるということは全く未来が吾々にとって全く未知であるから特に興味を惹くということのために過ぎない。何れも同じ因果的な土台の上に立つと云わねばならぬ。勿論結果を惹き起こす Verursachung などという概念を用いるならば二つの見方が同一の土台の上に立つとは云い難いであろうが前にも述べたようにかかる概念は合法則性の記載的な意味を超越したものである以上、かかる概念に基くと考えられる目的概念は科学から之を捨て去って了わねばならぬ。かくして自然科学にとっては目的論の成立する余地はないのである。

それ故カントに於て見出されるこの問題が実際に大きな意味を持つものとは考えられない。この点に就いては現代の科学的見方とカントの思想との関係に多くの興味を繋ぐことは出来ぬと思われる。たとえカントの一般的考え方にとってこの問題が重大であるにしても之を時間空間の問題に於てのように精細に取り扱う理由は見出せないと思うものである。

自然科学的実在論的考え方と哲学的批判的考え方とがあるとすればこの対立が学の発達の暁に於て止揚されるという望みは少いであろう。前者は後者なくしても少くとも自然科学を実際に満足せしめ得るのであるから。併し実際上の問題を離れて認識論的見方に立つ限り両者の対立を止揚する事が吾々の願いでなければならぬ。私はこの論文に於て之を試みたと云うことも出来るであろう。分裂しがちな人間の認識と研究の総体を不離の一者に結び付けた人の尤なる者、カントを記念する日こそこの試みに最も応しくはないであろうか。

(一九二四・一一・七)

底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房

1966(昭和41)年5月25日第1刷発行

1967(昭和42)年5月15日第3刷発行

初出:「哲学研究 第九巻第一〇五号」

1924(大正13)年11月7日

入力:矢野正人

校正:Juki

2007年4月5日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

 

 

 



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