折口信夫 死者の書



おとめの閨戸(ねやど)をおとなう風(ふう)は、何も、珍しげのない国中の為来(しきた)りであった。だが其にも、曾(かつ)てはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老(とね)たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入(はい)れ相(そう)に見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神(もの)から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人と鬼(もの)との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲(す)むことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚(はばか)りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸(しとみど)をほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、美(くわ)し女(め)の家に、奴隷(やっこ)になって住みこんだ古(いにしえ)の貴(あて)びともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼神(もの)に入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあったし、田舎の村々では、之を言い立てに、ちっとでも、石城を残して置こうと争うた人々が、多かったのである。

そう言う家々では、実例として恐しい証拠を挙げた。卅年も昔、――天平八年厳命が降(くだ)って、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣(ちょうしん)が先って行わぬからである。汝等(みましたち)進んで、石城(しき)を毀(こぼ)って、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと、仰せ下された。藤氏四流の如き、今に旧態を易(か)えざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とお咎(とが)めが降(くだ)った。此時一度、凡(すべて)、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡(もがさ)がはやり出した。越えて翌年、益々盛んになって、四月北家を手初めに、京家・南家と、主人から、まず此時疫(じえき)に亡くなって、八月にはとうとう、式家の宇合卿(うまかいきょう)まで仆(たお)れた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだと、天下中の人が騒いだ。其でまた、とり壊した家も、ぼつぼつ旧(もと)に戻したりしたことであった。

こんなすさまじい事も、あって過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざまざと人の心に焼きついて離れぬ、現(うつつ)の恐しさであった。

其は其として、昔から家の娘を守った邑々(むらむら)も、段々えたいの知れぬ村の風に感染(かま)けて、忍(しの)び夫(づま)の手に任せ傍題(ほうだい)にしようとしている。そうした求婚(つまどい)の風を伝えなかった氏々の間では、此は、忍び難い流行であった。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思わぬようになった。が、家庭の中では、母・妻・乳母(おも)たちが、いまだにいきり立って、そうした風儀になって行く世間を、呪(のろ)いやめなかった。

手近いところで言うても、大伴宿禰(すくね)にせよ。藤原朝臣(あそん)にせよ。そう謂(い)う妻どいの式はなくて、数十代宮廷をめぐって、仕えて来た邑々のあるじの家筋であった。

でも何時か、そうした氏々の間にも、妻迎えの式には、

八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め)をありと聞(きこ)して……
から謡い起す神語歌(かみがたりうた)を、語部に歌わせる風が、次第にひろまって来るのを、防ぎとめることが出来なくなって居た。

南家(なんけ)の郎女(いらつめ)にも、そう言う妻覓(つまま)ぎ人が――いや人群(ひとむれ)が、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り残された石城の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み――たぶう――を犯すような危殆(ひあい)な心持ちで、誰も彼も、柵(さく)まで又、門まで来ては、かいまみしてひき還(かえ)すより上の勇気が、出ぬのであった。

通(かよ)わせ文(ぶみ)をおこすだけが、せめてものてだてで、其さえ無事に、姫の手に届いて、見られていると言う、自信を持つ人は、一人としてなかった。事実、大抵、女部屋の老女(とじ)たちが、引ったくって渡させなかった。そうした文のとりつぎをする若人―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱って居る事も、度々見かけられた。

其方(おもと)は、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕え遊ばす、清らかな常処女(とこおとめ)と申すのだ、と言うことを知らぬのかえ。神の咎(とが)めを憚(はばか)るがええ。宮から恐れ多いお召しがあってすら、ふつにおいらえを申しあげぬのも、それ故だとは考えつかぬげな。やくたい者。とっとと失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率川(いざかわ)の一の瀬で浄めて来くさろう。罰(ばち)知らずが……。
こんな風に、わなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかった。横佩家(よこはきけ)の女部屋に住んだり、通うたりしている若人は、一人残らず一度は、経験したことだと謂(い)っても、うそではなかった。

だが、郎女は、ついに一度そんな事のあった様子も、知らされずに来た。

上つ方の郎女が、才(ざえ)をお習い遊ばすと言うことが御座りましょうか。それは近代(ちかつよ)、ずっと下(しも)ざまのおなごの致すことと承ります。父君がどう仰(おっしゃ)ろうとも、父御(ててご)様のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣(おむね)、とお思いつかわされませ。
氏の掟(おきて)の前には、氏上(うじのかみ)たる人の考えをすら、否みとおす事もある姥(うば)たちであった。

其老女たちすら、郎女の天稟(てんぴん)には、舌を捲(ま)きはじめて居た。

もう、自身たちの教えることものうなった。
こう思い出したのは、数年も前からである。内に居る、身狭乳母(むさのちおも)・桃花鳥野乳母(つきぬのまま)・波田坂上刀自(はたのさかのえのとじ)、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息(たんそく)し続けていた。時々伺いに出る中臣志斐嫗(なかとみのしいのおむな)・三上水凝刀自女(みかみのみずごりのとじめ)なども、来る毎、目を見合せて、ほうっとした顔をする。どうしよう、と相談するような人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。

才を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えて賜(たも)れ。
素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺しとおされるような痛さであった。

何を仰せられまする。以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うような考えは、神様がお聞き届けになりません。教える者は目上、ならう者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。
志斐嫗の負け色を救う為に、身狭乳母も口を挿(はさ)む。

唯知った事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみ魂(たま)を揺(いぶ)る様にして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなど仰っては私めらが罰を蒙(こうむ)らなければなりません。
こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃(たの)む知識に対する、単純な自覚が出て来た。此は一層、郎女の望むままに、才を習した方が、よいのではないか、と言う気が、段々して来たのである。

まことに其為には、ゆくりない事が、幾重にも重って起った。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだったと見えて、二巻の女手(おんなで)の写経らしい物が出て来た。姫にとっては、肉縁はないが、曾祖母(ひおおば)にも当る橘(たちばな)夫人の法華経、又其御胎(おはら)にいらせられる――筋から申せば、大叔母御にもお当り遊ばす、今の皇太后様の楽毅論(がっきろん)。此二つの巻物が、美しい装いで、棚を架いた上に載せてあった。

横佩大納言と謂われた頃から、父は此二部を、自分の魂のように大事にして居た。ちょっと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人(とねり)の荷として、持たせて行ったものである。其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言わずにいたのである。さすがに我強(がづよ)い刀自たちも、此見覚えのある、美しい箱が出て来た時には、暫らく撲(う)たれたように、顔を見合せて居た。そうして後(のち)、後(あと)で恥しかろうことも忘れて、皆声をあげて泣いたものであった。

郎女は、父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したような興奮は、認められなかった。唯一途(いちず)に素直に、心の底の美しさが匂い出たように、静かな、美しい眼で、人々の感激する様子を、驚いたように見まわして居た。

其からは、此二つの女手の「本」を、一心に習いとおした。偶然は友を誘(ひ)くものであった。一月も立たぬ中の事である。早く、此都に移って居た飛鳥寺(あすかでら)―元興寺(がんこうじ)―から巻数(かんず)が届けられた。其には、難波にある帥(そつ)の殿の立願(りゅうがん)によって、仏前に読誦(とくしょう)した経文の名目が、書き列(つら)ねてあった。其に添えて、一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。

父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を発(おこ)して、書き綴った「仏本伝来記」を、其後二年立って、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かった寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠(こ)めたもの、と言うことは察せられる。其一巻が、どう言う訣(わけ)か、二十年もたってゆくりなく、横佩家へ戻って来たのである。

郎女の手に、此巻が渡った時、姫は端近く膝行(いざ)り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、

難波とやらは、どちらに当るかえ。
と尋ねて、示す方角へ、活(い)き活(い)きした顔を向けた。其目からは、珠数の珠(たま)の水精(すいしょう)のような涙が、こぼれ出ていた。

其からと言うものは、来る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本(おおやまと)びとなる父の書いた文(もん)。指から腕、腕から胸、胸から又心へ、沁(し)み沁(じ)みと深く、魂を育てる智慧の這入(はい)って行くのを、覚えたのである。

大日本日高見(おおやまとひたかみ)の国。国々に伝わるありとある歌諺(うたことわざ)、又其旧辞(もとつごと)。第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。多くの語(かた)り詞(ごと)を、絶えては考え継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々(のろのろ)しく、くねくねしく、独り語りする語部や、乳母(おも)や、嚼母(まま)たちの唱える詞(ことば)が、今更めいて、寂しく胸に蘇(よみがえ)って来る。

おお、あれだけの習しを覚える、ただ其だけで、此世に生きながらえて行かねばならぬみずからであった。
父に感謝し、次には、尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母(おおおば)の尊(みこと)に、何とお礼申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。だがまず、父よりも誰よりも、御礼申すべきは、み仏である。この珍貴(うず)の感覚(さとり)を授け給う、限り知られぬ愛(めぐ)みに充ちたよき人が、此世界の外に、居られたのである。郎女(いらつめ)は、塗香(ずこう)をとり寄せて、まず髪に塗り、手に塗り、衣を薫(かお)るばかりに匂わした。

   



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