折口信夫 死者の書

十二

怒りの滝のようになった額田部子古は、奈良に還(かえ)って、公に訴えると言い出した。大和国にも断って、寺の奴ばらを追い払って貰うとまで、いきまいた。大師を頭(かしら)に、横佩家に深い筋合いのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願わずには置かぬ、と凄い顔をして、住侶(じゅうりょ)たちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢(けが)し、結界まで破られたからは、直にお還りになるようには計われぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖(あがな)いはして貰わねばならぬ、と寺方も、言い分はひっこめなかった。

理分に非分にも、これまで、南家の権勢でつき通してきた家長老(おとな)等にも、寺方の扱いと言うものの、世間どおりにはいかぬ事が訣(わか)って居た。乳母に相談かけても、一代そう言う世事に与った事のない此人は、そんな問題には、詮(かい)ない唯の女性(にょしょう)に過ぎなかった。

先刻(さっき)からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。

其は、寺方が、理分でおざるがや。お随(おしたが)いなされねばならぬ。
其を聞くと、身狭乳母は、激しく、田舎語部の老女を叱りつけた。男たちに言いつけて、畳にしがみつき、柱にかき縋(すが)る古婆(ふるばば)を掴(つか)み出させた。そうした威高さは、さすがに自(おのずか)ら備っていた。

何事も、この身などの考えではきめられぬ。帥(そつ)の殿(との)に承ろうにも、国遠し。まず姑(しば)し、郎女様のお心による外はないもの、と思いまする。
其より外には、方(ほう)もつかなかった。奈良の御館(みたち)の人々と言っても、多くは、此人たちの意見を聴いてする人々である。よい思案を、考えつきそうなものも居ない。難波へは、直様、使いを立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考えに任せよう、と言うことになった。

郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤(もっとも)、寺方でも、候人(さぶらいびと)や、奴隷(やっこ)の人数を揃えて、妨げましょう。併し、御館のお勢いには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考えを承らずには、何とも計いかねまする。御思案お洩(もら)し遊ばされ。
謂(い)わば、難題である。あて人の娘御に、出来よう筈のない返答である。乳母(おも)も、子古も、凡(およそ)は無駄な伺いだ、と思っては居た。ところが、郎女の答えは、木魂返(こだまがえ)しの様に、躊躇(ためら)うことなしにあった。其上、此ほどはっきりとした答えはない、と思われる位、凛(りん)としていた。其が、すべての者の不満を圧倒した。

姫の咎(とが)は、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。
郎女の声・詞(ことば)を聞かぬ日はない身狭乳母ではあった。だがついしか此ほどに、頭の髄まで沁(し)み入るような、さえざえとした語を聞いたことのない、乳母(ちおも)だった。

寺方の言い分に譲るなど言う問題は、小い事であった。此爽(さわ)やかな育ての君の判断力と、惑いなき詞に感じてしまった。ただ、涙。こうまで賢(さか)しい魂を窺(うかが)い得て、頬に伝うものを拭うことも出来なかった。子古にも、郎女の詞を伝達した。そうして、自分のまだ曾(かつ)て覚えたことのない感激を、力深くつけ添えて聞かした。

ともあれ此上は、難波津(なにわづ)へ。
難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した。今日か明日、新羅(しらぎ)問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれることになっているかも知れぬ。手遅れしては一大事である。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。

万法蔵院に、唯一つ飼って居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に向けて、庭から匍伏(ほふく)した。

子古の発った後は、又のどかな春の日に戻った。悠々(うらうら)と照り暮す山々を見せましょう、と乳母が言い出した。木立ち・山陰から盗み見する者のないように、家人らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘い出した。

暴風雨(あらし)の夜、添下(そうのしも)・広瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎(かげろう)も立たず、唯おどんで見えた。昨日跳めた野も、斜になった日を受けて、物の影が細長く靡(なび)いて居た。青垣の様にとりまく山々も、愈々(いよいよ)遠く裾を曳(ひ)いて見えた。早い菫(すみれ)―げんげ―が、もうちらほら咲いている。遠く見ると、その赤々とした紫が一続きに見えて、夕焼け雲がおりて居るように思われる。足もとに一本、おなじ花の咲いているのを見つけた郎女(いらつめ)は、膝を叢(くさむら)について、じっと眺め入った。

これはえ――。

すみれ、と申すとのことで御座ります。
こう言う風に、物を知らせるのが、あて人に仕える人たちの、為来(しきた)りになって居た。

蓮(はちす)の花に似ていながら、もっと細やかな、――絵にある仏の花を見るような――。
ひとり言しながら、じっと見ているうちに、花は、広い萼(うてな)の上に乗った仏の前の大きな花になって来る。其がまた、ふっと、目の前のささやかな花に戻る。

夕風が冷(ひや)ついて参ります。内へと遊ばされ。
乳母が言った。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。

近々と、谷を隔てて、端山の林や、崖(なぎ)の幾重も重った上に、二上の男岳(おのかみ)の頂が、赤い日に染って立っている。

今日は、又あまりに静かな夕(ゆうべ)である。山ものどかに、夕雲の中に這入(はい)って行こうとしている。

もうしもうし。もう外に居る時では御座りません。

   



この本を、全文縦書きブラウザで読むにはこちらをクリックしてください。
【明かりの本】のトップページはこちら

 
 
 
以下の「読んだボタン」を押してツイッターやFacebookを本棚がわりに使えます。
ボタンを押すと、友人にこの本をシェアできます。
↓↓↓ 

Facebook Twitter Email
facebooktwittergoogle_plusredditpinterestlinkedinmailby feather

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">