折口信夫 死者の書

十三

「朝目よく」うるわしい兆(しるし)を見た昨日は、郎女(いらつめ)にとって、知らぬ経験を、後から後から展(ひら)いて行ったことであった。ただ人(びと)の考えから言えば、苦しい現実のひき続きではあったのだが、姫にとっては、心驚く事ばかりであった。一つ一つ変った事に逢う度に、「何も知らぬ身であった」と姫の心の底の声が揚った。そうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい気が、一ぱいであった。今日も其続きを、くわしく見た。

なごり惜しく過ぎ行く現(うつ)し世(よ)のさまざま。郎女は、今目を閉じて、心に一つ一つ収めこもうとして居る。ほのかに通り行き、将(はた)著しくはためき過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬(いおり)のまわりは、すっかり手入れがせられて居た。灯台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々(こうこう)と、油火(あぶらび)が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処には、すさまじいと言う者があって、どこかへ搬(はこ)んで行かれた。其よりも、郎女の為には、帳台の設備(しつら)われている安らかさ。今宵は、夜も、暖かであった。帷帳(とばり)を周(めぐ)らした中は、ほの暗かった。其でも、山の鬼神(もの)、野の魍魎(もの)を避ける為の灯の渦が、ぼうと梁(はり)に張り渡した頂板(つしいた)に揺めいて居るのが、たのもしい気を深めた。帳台のまわりには、乳母や、若人が寝たらしい。其ももう、一時(ひととき)も前の事で、皆すやすやと寝息の音を立てて居る。姫の心は、今は軽かった。たとえば、俤(おもかげ)に見たお人には逢わずとも、その俤を見た山の麓(ふもと)に来て、こう安らかに身を横えて居る。

灯台の明りは、郎女の額の上に、高く朧(おぼ)ろに見える光りの輪を作って居た。月のように円くて、幾つも上へ上へと、月輪(がちりん)の重っている如くも見えた。其が、隙間風の為であろう。時々薄れて行くと、一つの月になった。ぽうっと明り立つと、幾重にも隈(くま)の畳まった、大きな円(まど)かな光明になる。

幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やっと、遅い月が出たことであろう。

物の音。――つた つたと来て、ふうと佇(た)ち止るけはい。耳をすますと、元の寂(しず)かな夜に、――激(たぎ)ち降(くだ)る谷のとよみ。

つた つた つた。
又、ひたと止(や)む。

この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音(あしおと)だろう。

つた。
郎女は刹那(せつな)、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦(おのの)きが出て来た。

天若御子(あめわかみこ)――。
ようべ、当麻語部嫗(たぎまのかたりのおむな)の聞した物語り。ああ其お方の、来て窺(うかが)う夜なのか。

――青馬の 耳面刀自(みゝものとじ)。

刀自もがも。女弟(おと)もがも。

その子の はらからの子の

処女子(おとめご)の 一人

一人だに わが配偶(つま)に来よ
まことに畏(おそろ)しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧(おさ)えられるような畏(こわ)さを知った。あああの歌が、胸に生き蘇(かえ)って来る。忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞(ことば)から、胸にとおって響く。乳房から迸(ほとばし)り出ようとするときめき。

帷帳がふわと、風を含んだ様に皺(しわ)だむ。

ついと、凍る様な冷気――。

郎女は目を瞑(つぶ)った。だが――瞬間睫(まつげ)の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴(つか)んだ片手の白く光る指。

なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇を洩(も)れた詞。この時、姫の心は、急に寛(くつろ)ぎを感じた。さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直(すぐ)に動顛(どうてん)した心を、とり直すことが出来た。

のうのう。あみだほとけ……。
今一度口に出して見た。おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経の文(もん)が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかった。父君は家の内に道場を構えて居たが、簾(すだれ)越しにも聴聞は許されなかった。御経(おんきょう)の文(もん)は手写しても、固(もと)より意趣は、よく訣(わか)らなかった。だが、処々には、かつがつ気持ちの汲みとれる所があったのであろう。さすがに、まさかこんな時、突嗟(とっさ)に口に上ろう、とは思うて居なかった。

白い骨、譬(たと)えば白玉の並んだ骨の指、其が何時までも目に残って居た。帷帳は、元のままに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでいるような気がする。

悲しさとも、懐しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行った。山の端に立った俤びとは、白々(しろじろ)とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のように、からびて寂しく、目にうつる。

長い渚を歩いて行く。郎女の髪は、左から右から吹く風に、あちらへ靡(なび)き、こちらへ乱れする。浪(なみ)はただ、足もとに寄せている。渚と思うたのは、海の中道(なかみち)である。浪は、両方から打って来る。どこまでもどこまでも、海の道は続く。郎女の足は、砂を踏んでいる。その砂すらも、段々水に掩(おお)われて来る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と気がつく。姫は身を屈(こご)めて、白玉を拾う。拾うても拾うても、玉は皆、掌(たなそこ)に置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾い続ける。玉は水隠(みがく)れて、見えぬ様になって行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬(すく)おうとする。掬(むす)んでも掬んでも、水のように、手股(たなまた)から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶつぶ並んで見える。忙(あわただ)しく拾おうとする姫の俯(うつむ)いた背を越して、流れる浪が、泡立ってとおる。

姫は――やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。そう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆(たお)される。浪に漂う身……衣もなく、裳(も)もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現(うつ)し身(み)。

ずんずんと、さがって行く。水底(みなぞこ)に水漬(みづ)く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹(ひともと)の白い珊瑚(さんご)の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生い靡(なび)くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのままに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほっと息をついた。

まるで、潜(かず)きする海女が二十尋(はたひろ)・三十尋(みそひろ)の水底から浮び上って嘯(うそぶ)く様に、深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。

ああ夢だった。当麻(たぎま)まで来た夜道の記憶は、まざまざと残って居るが、こんな苦しさは覚えなかった。だがやっぱり、おとといの道の続きを辿(たど)って居るらしい気がする。

水の面からさし入る月の光り、そう思うた時は、ずんずん海面に浮き出て来た。そうして悉(ことごと)く、跡形もない夢だった。唯、姫の仰ぎ寝る頂板(つしいた)に、ああ、水にさし入った月。そこに以前のままに、幾つも暈(かさ)の畳まった月輪の形が、揺めいて居る。

のうのう 阿弥陀(あみだ)ほとけ……。
再、口に出た。光りの暈は、今は愈々(いよいよ)明りを増して、輪と輪との境の隈々(くまぐま)しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝り初めて、明るい光明の中に、胸・肩・頭・髪、はっきりと形を現(げん)じた。白々と袒(ぬ)いだ美しい肌。浄(きよ)く伏せたまみが、郎女(いらつめ)の寝姿を見おろして居る。かの日の夕(ゆうべ)、山の端に見た俤(おもかげ)びと――。乳のあたりと、膝元とにある手――その指(および)、白玉の指。姫は、起き直った。天井の光りの輪が、元のままに、ただ仄(ほの)かに、事もなく揺れて居た。

   



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