折口信夫 死者の書

十五

つた つた つた。
郎女は、一向(ひたすら)、あの音の歩み寄って来る畏(おそろ)しい夜更けを、待つようになった。おとといよりは昨日、昨日よりは今日という風に、其跫音(あしおと)が間遠になって行き、此頃はふつに音せぬようになった。その氷の山に対(むこ)うて居るような、骨の疼(うず)く戦慄(せんりつ)の快感、其が失せて行くのを虞(おそ)れるように、姫は夜毎、鶏のうたい出すまでは、殆、祈る心で待ち続けて居る。

絶望のまま、幾晩も仰ぎ寝たきりで、目は昼よりも寤(さ)めて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかった。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板(つし)の面(おもて)の光り輪にすら、明盲(あきじ)いのように、注意は惹(ひ)かれなくなった。ここに来て、疾(と)くに、七日は過ぎ、十日・半月になった。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨(のいばら)の花のようだった小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が、谷から峰かけて、断続しながら咲いているのも見える。麦原(むぎふ)は、驚くばかり伸び、里人の野為事(しごと)に出た姿が、終日、そのあたりに動いている。

都から来た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と侘(わ)びる者が殖えて行った。廬堂(いおりどう)の近くに掘り立てた板屋に、こう長びくとは思わなかったし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に会うことばかりを考えた。親に養われる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思う心が、切々として来るのである。女たちは、こうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何かと為事を考えてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もっと廬に接して建てられて居た。

身狭乳母(むさのちおも)の思いやりから、男たちの多くは、唯さえ小人数な奈良の御館(みたち)の番に行け、と言って還(かえ)され、長老(おとな)一人の外は、唯雑用(ぞうよう)をする童と、奴隷(やっこ)位しか残らなかった。

乳母(おも)や、若人たちも、薄々は帳台の中で夜を久しく起きている、郎女(いらつめ)の様子を感じ出して居た。でも、なぜそう夜深く溜(た)め息(いき)ついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎの女たちである。

やはり、郎女の魂(たま)があくがれ出て、心が空しくなって居るもの、と単純に考えて居る。ある女は、魂ごいの為に、山尋ねの咒術(おこない)をして見たらどうだろう、と言った。

乳母は一口に言い消した。姫様、当麻(たぎま)に御安著(あんちゃく)なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂(い)った蠱物(まじもの)使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事を惹(ひ)き起したのだ。

その節、山の峠(たわ)の塚で起った不思議は、噂になって、この貴人(うまびと)一家の者にも、知れ渡って居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もうもう、軽はずみな咒術は思いとまることにしよう。こうして、魂(たま)の游離(あくが)れ出た処の近くにさえ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだろう。こんな風に考えて、乳母は唯、気長に気ながに、と女たちを諭し諭しした。こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて、桜の後、暫らく寂しかった山に、躑躅(つつじ)が燃え立った。足も行かれぬ崖の上や、巌の腹などに、一群(ひとむら)一群咲いて居るのが、奥山の春は今だ、となのって居るようである。

ある日は、山へ山へと、里の娘ばかりが上って行くのを見た。凡(およそ)数十人の若い女が、何処で宿ったのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして、降りて来た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林が練って降るようだ、と声をあげた。

ぞよぞよと廬の前を通る時、皆頭をさげて行った。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時(なわしろどき)である。やがては田植えをする。其時は、見に出やしゃれ。こんな身でも、其時はずんと、おなごぶりが上るぞな、と笑う者もあった。

ここの田居の中で、植え初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田じゃげな。
若人たちは、又例の蠱物姥(まじものうば)の古語りであろう、とまぜ返す。ともあれ、こうして、山ごもりに上った娘だけに、今年の田の早処女が当ります。其しるしが此じゃ、と大事そうに、頭の躑躅に触れて見せた。

もっと変った話を聞かせぬかえと誘われて、身分に高下はあっても、同じ若い同士のこととて、色々な田舎咄(いなかばなし)をして行った。其を後(のち)に乳母たちが聴いて、気にしたことがあった。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどうどうと踏みおりて来る者がある。ようべ、真夜中のことである。一様にうなされて、苦しい息をついていると、音はそのまま、真下へ真下へ、降って行った。がらがらと、岩の崩(く)える響き。――ちょうど其が、此盧堂の真上の高処(たか)に当って居た。こんな処に道はない筈じゃが、と今朝起きぬけに見ると、案の定、赤岩の大崩崖(おおなぎ)。ようべの音は、音ばかりで、ちっとも痕(あと)は残って居なかった。

其で思い合せられるのは、此頃ちょくちょく、子(ね)から丑(うし)の間に、里から見えるこのあたりの峰(お)の上(え)に、光り物がしたり、時ならぬ一時颪(いっときおろし)の凄い唸(うな)りが、聞えたりする。今までついに聞かぬこと。里人は唯こう、恐れ謹しんで居る、とも言った。

こんな話を残して行った里の娘たちも、苗代田の畔(あぜ)に、めいめいのかざしの躑躅花を挿して帰った。其は昼のこと、田舎は田舎らしい閨(ねや)の中に、今は寝ついたであろう。夜はひた更けに、更けて行く。

昼の恐れのなごりに、寝苦しがって居た女たちも、おびえ疲れに寝入ってしまった。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思わぬ目を、ふっと開いた。続いて今ひと響き、びしとしたのは、鳥などの、翼ぐるめひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたように、虚しい空間の闇に、時間が立って行った。

郎女の額(ぬか)の上の天井の光の暈(かさ)が、ほのぼのと白んで来る。明りの隈(くま)はあちこちに偏倚(かたよ)って、光りを竪(たて)にくぎって行く。と見る間に、ぱっと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫(すみれ)。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の青蓮華(しょうれんげ)と言うものであろうか。郎女の目には、何とも知れぬ浄(きよ)らかな花が、車輪のように、宙にぱっと開いている。仄暗(ほのぐら)い蕋(しべ)の処に、むらむらと雲のように、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髪である。髪の中から匂い出た荘厳な顔。閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る。ああ肩・胸・顕(あら)わな肌。――冷え冷えとした白い肌。おお おいとおしい。

郎女は、自身の声に、目が覚めた。夢から続いて、口は尚夢のように、語を逐(お)うて居た。

おいとおしい。お寒かろうに――。

   



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