折口信夫 死者の書

十七

彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のように深碧(ふかみどり)に凪(な)いだ空に、昼過ぎて、白い雲が頻(しき)りにちぎれちぎれに飛んだ。其が門渡(とわた)る船と見えている内に、暴風(あらし)である。空は愈々(いよいよ)青澄み、昏(くら)くなる頃には、藍(あい)の様に色濃くなって行った。見あげる山の端は、横雲の空のように、茜色(あかねいろ)に輝いて居る。

大山颪(おおやまおろし)。木の葉も、枝も、顔に吹きつけられる程の物は、皆活(い)きて青かった。板屋は吹きあげられそうに、煽(あお)りきしんだ。若人たちは、悉(ことごと)く郎女の廬(いおり)に上って、刀自(とじ)を中に、心を一つにして、ひしと顔を寄せた。ただ互の顔の見えるばかりの緊張した気持ちの間に、刻々に移って行く風。西から真正面(まとも)に吹きおろしたのが、暫らくして北の方から落して来た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向ってひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空様(そらざま)に枝を掻き上げられた様になって、悲鳴を続けた。谷から峰(お)の上(へ)に生え上(のぼ)って居る萱原(かやはら)は、一様に上へ上へと糶(せ)り昇るように、葉裏を返して扱(こ)き上げられた。

家の中は、もう暗くなった。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかっきりと、物の一つ一つを、鮮やかに見せて居た。

郎女様が――。
誰かの声である。皆、頭の毛が空へのぼる程、ぎょっとした。其が、何だと言われずとも、すべての心が、一度に了解して居た。言い難い恐怖にかみずった女たちは、誰一人声を出す者も居なかった。

身狭乳母は、今の今まで、姫の側に寄って、後から姫を抱えて居たのである。皆の人はけはいで、覚め難い夢から覚めたように、目をみひらくと、ああ、何時の間にか、姫は嫗(おむな)の両腕(もろうで)両膝の間には、居させられぬ。一時に、慟哭(どうこく)するような感激が来た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凛(りん)として、反り返る様な力が、湧き上った。

誰(た)ぞ、弓を――。鳴弦(つるうち)じゃ。
人を待つ間もなかった。彼女自身、壁代(かべしろ)に寄せかけて置いた白木の檀弓(まゆみ)をとり上げて居た。

それ皆の衆――。反閇(あしぶみ)ぞ。もっと声高(こわだか)に――。あっし、あっし、それ、あっしあっし……。
若人たちも、一人一人の心は、疾(と)くに飛んで行ってしまって居た。唯一つの声で、警※(けいひつ)[#「馬+畢」、198-下段-5]を発し、反閇(へんばい)した。

あっし あっし。

あっし あっし あっし。
狭い廬(いおり)の中を蹈(ふ)んで廻った。脇目からは、遶道(にょうどう)する群れのように。

郎女様は、こちらに御座りますか。
万法蔵院の婢女が、息をきらして走って来て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と、廬の砌(みぎり)に立って叫んだ。

なに――。
皆の口が、一つであった。

郎女様か、と思われるあて人が――、み寺の門(かど)に立って居さっせるのを見たで、知らせにまいりました。
今度は、乳母一人の声が答えた。

なに、み寺の門に。
婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を、早足に練り出した。

あっし あっし あっし ……。
声は、遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な鋭声(とごえ)が、野面(のづら)に伝わる。

万法蔵院は、実に寂(せき)として居た。山風は物忘れした様に、鎮まって居た。夕闇はそろそろ、かぶさって来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺庭は、白砂が、昼の明りに輝いていた。ここからよく見える二上の頂は、広く、赤々と夕映えている。

姫は、山田の道場の(まど)から仰ぐ空の狭さを悲しんでいる間に、何時かここまで来て居たのである。浄域を穢(けが)した物忌みにこもっている身、と言うことを忘れさせぬものが、其でも心の隅にあったのであろう。門の閾(しきみ)から、伸び上るようにして、山の際(は)の空を見入って居た。

暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻ったらしい。だが、寺は物音もない黄昏(たそがれ)だ。

男岳(おのかみ)と女岳(めのかみ)との間になだれをなした大きな曲線(たわ)が、又次第に両方へ聳(そそ)って行っている、此二つの峰の間の広い空際。薄れかかった茜の雲が、急に輝き出して、白銀の炎をあげて来る。山の間(ま)に充満して居た夕闇は、光りに照されて、紫だって動きはじめた。

そうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。肌 肩 脇 胸 豊かな姿が、山の尾上の松原の上に現れた。併し、俤(おもかげ)に見つづけた其顔ばかりは、ほの暗かった。

今すこし著(しる)く み姿顕(あらわ)したまえ――。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となって靉(たなび)き、次第次第に降(さが)る様に見えた。

明るいのは、山際ばかりではなかった。地上は、砂(いさご)の数もよまれるほどである。

しずかに しずかに雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡(くり)、悉(ことごと)く金に、朱に、青に、昼より著(いちじる)く見え、自ら光りを発して居た。

庭の砂の上にすれすれに、雲は揺曳(ようえい)して、そこにありありと半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂いやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉じられた目は、此時、姫を認めたように、清(すず)しく見ひらいた。軽くつぐんだ脣(くちびる)は、この女性(にょしょう)に向うて、物を告げてでも居るように、ほぐれて見えた。

郎女は尊さに、目の低(た)れて来る思いがした。だが、此時を過してはと思う一心で、御姿(みすがた)から、目をそらさなかった。

あて人を讃えるものと、思いこんだあの詞(ことば)が、又心から迸(ほとばし)り出た。

なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。
瞬間に明りが薄れて行って、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上って行く。姫が、目送する間もない程であった。忽(たちまち)、二上山の山の端に溶け入るように消えて、まっくらな空ばかりの、たなびく夜に、なって居た。

あっし あっし。
足を蹈み、前(さき)を駆(お)う声が、耳もとまで近づいて来ていた。

   



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