折口信夫 死者の書

十八

当麻(たぎま)の邑(むら)は、此頃、一本の草、一塊(ひとくれ)の石すら、光りを持つほど、賑(にぎわ)い充(み)ちて居る。

当麻真人家(たぎまのまひとけ)の氏神当麻彦の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏上の拝礼があった。故上総守老真人(かずさのかみおゆのまひと)以来、暫らく絶えて居たことである。

其上、もうに二三日に迫った八月(はつき)の朔日(ついたち)には、奈良の宮から、勅使が来向われる筈になって居た。当麻氏から出られた大夫人(だいふじん)のお生み申された宮の御代に、あらたまることになったからである。廬堂の中は、前よりは更に狭くなって居た。郎女が、奈良の御館(みたち)からとり寄せた高機(たかはた)を、設(た)てたからである。機織りに長(た)けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬(おさ)や梭(ひ)の扱い方を、姫はすぐに会得した。機に上って日ねもす、時には終夜(よもすがら)織って見るけれど、蓮の糸は、すぐに円(つぶ)になったり、断(き)れたりした。其でも、倦(う)まずにさえ織って居れば、何時か織りあがるもの、と信じている様に、脇目からは見えた。

乳母(ちおも)は、人に見せた事のない憂わしげな顔を、此頃よくしている。

何しろ、唐土(もろこし)でも、天竺(てんじく)から渡った物より手に入らぬ、という藕糸織(はすいとお)りを遊ばそう、と言うのじゃもののう。
話相手にもしなかった若い者たちに、時々うっかりと、こんな事を、言う様になった。

こう糸が無駄になっては。

今の間にどしどし績(う)んで置かいでは――。
乳母の語に、若人たちは又、広々として野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだった。そうして、女たちの刈りとった蓮積み車が、廬(いおり)に戻って来ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、当麻の邑(むら)の騒ぎの噂である。

郎女(いらつめ)様のお従兄恵美の若子(わくご)さまのお母(はら)様も、当麻真人のお出じゃげな――。

恵美の御館(みたち)の叔父君の世界、見るような世になった。

兄御を、帥(そつ)の殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあろうのう――。
あて人に仕えて居ても、女はうっかりすると、人の評判に時を移した。

やめい やめい。お耳ざわりぞ。
しまいには、乳母が叱りに出た。だが、身狭刀自(むさのとじ)自身のうちにも、もだもだと咽喉(のど)につまった物のある感じが、残らずには居なかった。そうして、そんなことにかまけることなく、何の訣(わけ)やら知れぬが、一心に糸を績み、機を織って居る育ての姫が、いとおしくてたまらぬのであった。

昼の中多く出た虻(あぶ)は、潜んでしまったが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して来る。日中の興奮で、皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す灯の明りを避けて、隅の物陰に、深い鼾(いびき)を立てはじめた。

郎女は、断(き)れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだ梭(ひ)を放そうともせぬ。

だが、此頃の姫の心は、満ち足ろうて居た。あれほど、夜々(よるよる)見て居た俤人(おもかげびと)の姿も見ずに、安らかな気持ちが続いているのである。

「此機を織りあげて、はようあの素肌のお身を、掩(おお)うてあげたい。」

其ばかり考えて居る。世の中になし遂げられぬもののあると言うことを、あて人は知らぬのであった。

ちょう ちょう はた はた。

はた はた ちょう……。
筬(おさ)を流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。引いても扱(こ)いても通らぬ。筬の歯が幾枚も毀(こぼ)れて、糸筋の上にかかって居るのが見える。

郎女は、溜(た)め息(いき)をついた。乳母に問うても、知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動かすことはえすまい。

どうしたら、よいのだろう。
姫ははじめて、顔へ偏ってかかって来る髪のうるささを感じた。筬の櫛目(くしめ)を覗いて見た。梭もはたいて見た。

ああ、何時になったら、したてた衣(ころも)を、お肌へふくよかにお貸し申すことが出来よう。
もう外の叢(くさむら)で鳴き出した、蟋蟀(こおろぎ)の声を、瞬間思い浮べて居た。

どれ、およこし遊ばされ。こう直せば、動かぬこともおざるまい――。
どうやら聞いた気のする声が、機の外にした。

あて人の姫は、何処から来た人とも疑わなかった。唯、そうした好意ある人を、予想して居た時なので、

見てたもれ。
機をおりた。

女は尼であった。髪を切って尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたことはあったが、剃髪(ていはつ)した尼には会うたことのない姫であった。

はた はた ちょう ちょう
元の通りの音が、整って出て来た。

蓮の糸は、こう言う風では、織れるものではおざりませぬ。もっと寄って御覧(ごろう)じ――。これこう――おわかりかえ。
当麻語部姥(うば)の声である。だが、そんなことは、郎女の心には、間題でもなかった。

おわかりなさるかえ。これこう――。
姫の心は、こだまの如く聡(さと)くなって居た。此才伎(てわざ)の経緯(ゆきたて)は、すぐ呑み込まれた。

織ってごろうじませ。
姫が、高機に代って入ると、尼は機陰に身を倚(よ)せて立つ。

はた はた ゆら ゆら。
音までが、変って澄み上った。

女鳥(めとり)の わがおおきみの織(おろ)す機。誰(た)が為(た)ねろかも――、御存じ及びでおざりましょうのう。昔、こう、機殿の(まど)からのぞきこうで、問われたお方様がおざりましたっけ。

――その時、その貴い女性(にょしょう)がの、

たか行くや隼別(はやぶさわけ)の御被服料(みおすいがね)――そうお答えなされたとのう。

この中(じゅう)申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でもおざりました。天若日子(あめわかひこ)でもおざりました。天(てん)の日(ひ)に矢を射かける――。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。截(き)りはたり、ちょうちょう。それ――、早く織らねば、やがて、岩牀(いわどこ)の凍る冷い冬がまいりますがよ――。
郎女は、ふっと覚めた。あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。だが、梭をとり直して見ると、

はた はた ゆら ゆら。ゆら はたた。
美しい織物が、筬の目から迸(ほとばし)る。

はた はた ゆら ゆら。
思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つの閾(しきみ)を越えたのである。

   



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