折口信夫 死者の書



奈良の都には、まだ時おり、石城(しき)と謂(い)われた石垣を残して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符(だいじょうがんぷ)で、其を家の周りに造ることが、禁ぜられて来た。今では、宮廷より外には、石城を完全にとり廻した豪族の家などは、よくよくの地方でない限りは、見つからなくなって居る筈なのである。

其に一つは、宮廷の御在所が、御一代御一代に替って居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあった。其で凡(およそ)、都遷(みやこうつ)しのなかった形になったので、後から後から地割りが出来て、相応な都城(とじょう)の姿は備えて行った。其数朝の間に、旧族の屋敷は、段々、家構えが整うて来た。

葛城に、元のままの家を持って居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えて居た蘇我臣(そがのおみ)なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城(しき)なども高く、幾重にもとり廻して、凡永久の館作りをした。其とおなじ様な気持ちから、どの氏でも、大なり小なり、そうした石城づくりの屋敷を構えるようになって行った。

蘇我臣一流(ひとなが)れで最栄えた島の大臣家(おとどけ)の亡びた時分から、石城の構えは禁(と)められ出した。

この国のはじまり、天から授けられたと言う、宮廷に伝わる神の御詞(みことば)に背く者は、今もなかった。が、書いた物の力は、其が、どのように由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代が、まだ続いて居た。

其飛鳥の都も、高天原広野姫尊様(たかまのはらひろぬひめのみことさま)の思召(おぼしめ)しで、其から一里北の藤井个(が)原に遷され、藤原の都と名を替えて、新しい唐様(もろこしよう)の端正(きらきら)しさを尽した宮殿が、建ち並ぶ様になった。近い飛鳥から、新渡来(いまき)の高麗馬(こま)に跨(またが)って、馬上で通う風流士(たわれお)もあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖(さぎす)の阪の北、香具山の麓(ふもと)から西へ、新しく地割りせられた京城(けいじょう)の坊々(まちまち)に屋敷を構え、家造りをした。その次の御代になっても、藤原の都は、日に益し、宮殿が建て増されて行って、ここを永宮(とこみや)と遊ばす思召しが、伺われた。その安堵(あんど)の心から、家々の外には、石城を廻すものが、又ぼつぼつ出て来た。そうして、そのはやり風俗が、見る見るうちに、また氏々の族長の家囲いを、あらかた石にしてしまった。その頃になって、天真宗豊祖父尊様(あめまむねとよおおじのみことさま)がおかくれになり、御母(みおや) 日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみよとよくになすひめ)の大尊様(おおみことさま)がお立ち遊ばした。その四年目思いもかけず、奈良の都に宮遷しがあった。ところがまるで、追っかけるように、藤原の宮は固(もと)より、目ぬきの家並みが、不意の出火で、其こそ、あっと言う間に、痕形(あとかた)もなく、空(そら)の有(もの)となってしまった。もう此頃になると、太政官符(だいじょうがんぷ)に、更に厳しい添書(ことわき)がついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した転変に、目を瞠(みは)るばかりであったので、久しい石城の問題も、其で、解決がついて行った。

古い氏種姓(うじすじょう)を言い立てて、神代以来の家職の神聖を誇った者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失って来ている事に、気がついて居なかった。

最早くそこに心づいた、姫の祖父淡海公などは、古き神秘を誇って来た家職を、末代まで伝える為に、別に家を立てて中臣の名を保とうとした。そうして、自分・子供ら・孫たちと言う風に、いちはやく、新しい官人(つかさびと)の生活に入り立って行った。

ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持(おおとものやかもち)は、父旅人(たびと)の其年頃よりは、もっと優れた男ぶりであった。併し、世の中はもう、すっかり変って居た。見るもの障るもの、彼の心を苛(いら)つかせる種にならぬものはなかった。淡海公の、小百年前に実行して居る事に、今はじめて自分の心づいた鈍(おぞ)ましさが、憤らずに居られなかった。そうして、自分とおなじ風の性向の人の成り行きを、まざまざ省みて、慄然(りつぜん)とした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢に泥(なず)んで居た南家の横佩(よこはき)右大臣は、さきおととし、太宰員外帥(だざいのいんがいのそつ)に貶(おと)されて、都を離れた。そうして今は、難波で謹慎しているではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。

世間の氏上家(うじのかみけ)の主人(あるじ)は、大方もう、石城など築き廻(まわ)して、大門小門を繋(つな)ぐと謂(い)った要害と、装飾とに、興味を失いかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出来るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に囲われた家の中で、家の子どもを集め、氏人たちを召(よ)びつどえて、弓場(ゆば)に精励させ、棒術(ほこゆけ)・大刀かきに出精させよう、と謂ったことを空想して居る。そうして年々(としどし)頻繁に、氏神其外の神々を祭っている。其度毎に、家の語部大伴語造(おおとものかたりのみやつこ)の嫗(おむな)たちを呼んで、之に捉(つかま)え処もない昔代(むかしよ)の物語りをさせて、氏人に傾聴を強いて居る。何だか、空(くう)な事に力を入れて居たように思えてならぬ寂しさだ。

だが、其氏神祭りや、祭りの後宴(ごえん)に、大勢の氏人の集ることは、とりわけやかましく言われて来た、三四年以来の法度(はっと)である。

こんな溜(た)め息(いき)を洩(もら)しながら、大伴氏の旧(ふる)い習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外はない家持だったのである。

越中守として踏み歩いた越路の泥のかたが、まだ行縢(むかばき)から落ちきらぬ内に、もう復(また)、都を離れなければならぬ時の、迫って居るような気がして居た。其中、此針の筵(むしろ)の上で、兵部少輔(ひょうぶしょう)から、大輔(たいふ)に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願って来て居た。そうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎮める程に、人の心を浮き立たした。本朝出来の像としてはまず、此程物凄い天部(てんぶ)の姿を拝んだことは、はじめてだ、と言うものもあった。神代の荒神(あらがみ)たちも、こんな形相でおありだったろう、と言う噂も聞かれた。

まだ公(おおやけ)の供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり撒(ま)いていた。あの多聞天と、広目天との顔つきに、思い当るものがないか、と言うのであった。此はここだけの咄(はなし)だよ、と言って話したのが、次第に広まって、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大倭(やまと)一だと言われる男たちの顔、そのままだと言うのである。貴人は言わぬ、こう言う種類の噂は、えて供をして見て来た道々の博士たちと謂った、心蔑(さも)しいものの、言いそうな事である。

多聞天は、大師藤原恵美中卿(ちゅうけい)だ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失わぬあの方が、近頃おこりっぽくなって、よく下官や、仕え人を叱るようになった。あの円満(うま)し人(びと)が、どうしてこんな顔つきになるだろう、と思われる表情をすることがある。其面(おも)もちそっくりだ、と尤(もっとも)らしい言い分なのである。

そう言えば、あの方が壮盛(わかざか)りに、棒術を嗜(この)んで、今にも事あれかしと謂った顔で、立派な甲(よろい)をつけて、のっしのっしと長い物を杖(つ)いて歩かれたお姿が、あれを見ていて、ちらつくようだなど、と相槌(あいづち)をうつ者も出て来た。

其では、広目天の方はと言うと、

さあ、其がの――。
と誰に言わせても、ちょっと言い渋るように、困った顔をして見せる。

実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言うがや。……けど、他人(ひと)に言わせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐(う)たれなされた前太宰少弐(ぜんだざいのしょうに)―藤原広嗣―の殿に生写(しょううつ)しじゃ、とも言うがいよ。

わしには、どちらとも言えんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さっしゃるには、似ていさっしゃるげなが……。
何しろ、此二つの天部が、互に敵視するような目つきで、睨(にら)みあって居る。噂を気にした住侶(じゅうりょ)たちが、色々に置き替えて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、眦(まなじり)を裂いて見つめて居る。とうとうあきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方(しかた)がない、と思うようになったと言う。

若(も)しや、天下に大乱でも起らなければええが――。
こんな(ささや)きは、何時までも続きそうに、時と共に倦(う)まずに語られた。

前少弐殿でなくて、弓削新発意(ゆげしんぼち)の方であってくれれば、いっそ安心だがなあ。あれなら、事を起しそうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないじゃまで――。
言いたい傍題(ほうだい)な事を言って居る人々も、たった此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師恵美朝臣(えみのあそん)の姪の横佩家(よこはきけ)の郎女(いらつめ)が、神隠しに遭(お)うたと言う、人の口の端に、旋風(つじかぜ)を起すような事件が、湧き上ったのである。

   



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