永井荷風 日和下駄 一名 東京散策記





第七 路地

 鉄橋と渡船(わたしぶね)との比較からここに思起(おもいおこ)されるのは立派な表通(おもてどおり)の街路に対してその間々に隠れている路地(ろじ)の興味である。擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度電車の往来する鉄橋の趣に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地はあたかも渡船の物哀(ものあわれ)にして情味の深きに似ている。式亭三馬(しきていさんば)が戯作(げさく)『浮世床(うきよどこ)』の挿絵に歌川国直(うたがわくになお)が路地口(ろじぐち)のさまを描いた図がある。歌川豊国(とよくに)はその時代(享和二年)のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本『時勢粧(いまようかがみ)』の中(うち)に路地の有様を写している。路地はそれらの浮世絵に見る如く今も昔と変りなく細民(さいみん)の棲息する処、日の当った表通からは見る事の出来ない種々(さまざま)なる生活が潜(ひそ)みかくれている。佗住居(わびずまい)の果敢(はかな)さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境(らくきょう)もある。すいた同士の新世帯(しんしょたい)もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しといえども趣味と変化に富むことあたかも長編の小説の如しといわれるであろう。
 今日東京の表通は銀座より日本橋通(にほんばしどおり)は勿論上野の広小路(ひろこうじ)浅草の駒形通(こまがたどおり)を始めとして到処(いたるところ)西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板痩(や)せ衰(おとろ)えた並樹(なみき)さては処嫌わず無遠慮に突立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の網目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。さればこの中途半端の市街に対しては、風雨雪月夕陽(ふううせつげつせきよう)等の助けを借(か)るにあらずんば到底芸術的感興を催す事ができない。表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層(ひとしお)私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。
 路地はどうかすると横町同様人力車(くるま)の通れるほど広いものもあれば、土蔵(どぞう)または人家の狭間(ひあわい)になって人一人やっと通れるかどうかと危(あやぶ)まれるものもある。勿論その住民の階級職業によって路地は種々異った体裁(ていさい)をなしている。日本橋際(にほんばしぎわ)の木原店(きはらだな)は軒並(のきなみ)飲食店の行燈(あんどう)が出ている処から今だに食傷新道(しょくしょうじんみち)の名がついている。吾妻橋(あずまばし)の手前東橋亭(とうきょうてい)とよぶ寄席(よせ)の角(かど)から花川戸(はなかわど)の路地に這入(はい)れば、ここは芸人や芝居者(しばいもの)また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく猿若町(さるわかまち)の新道(しんみち)の昔もかくやと推量せられる。いつも夜店の賑(にぎわ)う八丁堀北島町(はっちょうぼりきたじまちょう)の路地には片側に講釈の定席(じょうせき)、片側には娘義太夫(むすめぎだゆう)の定席が向合っているので、堂摺連(どうするれん)の手拍子(てびょうし)は毎夜張扇(はりおうぎ)の響に打交(うちまじわ)る。両国(りょうごく)の広小路(ひろこうじ)に沿うて石を敷いた小路には小間物屋袋物屋(ふくろものや)煎餅屋(せんべいや)など種々(しゅじゅ)なる小売店(こうりみせ)の賑う有様、正(まさ)しく屋根のない勧工場(かんこうば)の廊下と見られる。横山町辺(よこやまちょうへん)のとある路地の中(なか)にはやはり立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒袋物(ながとつつふくろもの)また筆なぞ製している問屋(とんや)ばかりが続いているので、路地一帯が倉庫のように思われる処があった。芸者家(げいしゃや)の許可された町の路地はいうまでもなく艶(なまめか)しい限りであるが、私はこの種類の中(うち)では新橋柳橋(しんばしやなぎばし)の路地よりも新富座裏(しんとみざうら)の一角をばそのあたりの堀割の夜景とまた芝居小屋の背面を見る様子とから最も趣のあるように思っている。路地の最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは葭町(よしちょう)の芸者家町であろう。路地の内に蔵造(くらづくり)の質屋もあれば有徳(うとく)な人の隠宅(いんたく)らしい板塀も見える。わが拙作(せっさく)小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。
 路地の光景が常に私をしてかくの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如きあるいはわが浮世絵に味うが如き平民的画趣ともいうべき一種の芸術的感興に基(もとづ)くものである。路地を通り抜ける時試(こころみ)に立止って向うを見れば、此方(こなた)は差迫る両側の建物に日を遮(さえぎ)られて湿(しめ)っぽく薄暗くなっている間から、彼方(かなた)遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに賑(にぎや)かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来(ゆきき)の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。夜になって此方は真暗な路地裏から表通の燈火を見るが如きはいわずともまた別様(べつよう)の興趣がある。川添いの町の路地は折々忍返(しのびがえ)しをつけたその出口から遥に河岸通(かしどおり)のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である。
 路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明(あきらか)には描き出されていない。どこから這入(はい)って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず行止(ゆきどま)りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。路地には往々江戸時代から伝承し来(きた)った古い名称がある。即ち中橋(なかばし)の狩野新道(かのうじんみち)というが如き歴史的由緒(ゆいしょ)あるものも尠(すくな)くない。しかしそれとてもその土地に住古(すみふる)したものの間にのみ通用されべき名前であって、東京市の市政が認めて以て公(おおやけ)の町名となしたものは恐らくは一つもあるまい。路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じように、表通りに門戸(もんこ)を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自(おのずか)ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目(めんぼく)体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響(じひびき)に午睡(ごすい)の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕(ゆうべ)は格子戸(こうしど)の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜(よ)は置炬燵(おきごたつ)に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引(かなぼうひき)の女房によって仔細に伝えられ、喘息持(ぜんそくもち)の隠居が咳嗽(せき)は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中(うち)に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして凡(すべ)てこの世界のあくまで下世話(げせわ)なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸(こうしど)、溝板(どぶいた)、物干台(ものほしだい)、木戸口(きどぐち)、忍返(しのびがえし)なぞいう道具立(どうぐだて)と一致している。この点よりして路地はまた渾然(こんぜん)たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。




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