永井荷風 日和下駄 一名 東京散策記





第八 閑地

 市中(しちゅう)の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが最(も)う一つある。それは閑地(あきち)である。市中繁華なる街路の間に夕顔昼顔(ひるがお)露草車前草(おおばこ)なぞいう雑草の花を見る閑地である。
 閑地は元よりその時と場所とを限らず偶然に出来るもの故われわれは市内の如何なる処に如何なる閑地があるかは地面師(じめんし)ならぬ限り予(あらかじ)めこれを知る事が出来ない。唯(ただ)その場に通りかかって始めてこれを見るのみである。しかし閑地は強(し)いて捜し歩かずとも市中到(いた)るところにある。今まで久しく草の生えていた閑地が地ならしされてやがて普請(ふしん)が始まるかと思えば、いつの間にかその隣の家(うち)が取払われて、或(ある)場合には火事で焼けたりして爰(ここ)に別の閑地ができる。そして一雨(ひとあめ)降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして蝶々(ちょうちょう)蜻蛉(とんぼ)やきりぎりすの飛んだり躍(は)ねたりする野原になってしまうと、外囲(そとがこい)はあってもないと同然、通り抜ける人たちの下駄の歯に小径(こみち)は縦横に踏開かれ、昼は子供の遊場(あそびば)、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が素人相撲(しろうとずもう)を催すのも閑地があるためである。
 市中繁華な町の倉と倉との間、または荷船の込合(こみあ)う堀割近くにある閑地には、今も昔と変りなく折々紺屋(こうや)の干場(ほしば)または元結(もとゆい)の糸繰場(いとくりば)なぞになっている処がある。それらの光景は私の眼には直(ただち)に北斎(ほくさい)の画題を思起(おもいおこ)させる。いつぞや芝白金(しばしろかね)の瑞聖寺(ずいしょうじ)という名高い黄檗宗(おうばくしゅう)の禅寺を見に行った時その門前の閑地に一人の男が頻(しきり)と元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその辺(へん)の貧しい人家などに対照して、私は俳人其角(きかく)が茅場町薬師堂(かやばちょうやくしどう)のほとりなる草庵の裏手、蓼(たで)の花穂(はなほ)に出でたる閑地に、文七(ぶんしち)というものが元結こぐ車の響をば昼も蜩(ひぐらし)に聞きまじえてまた殊更の心地し、


文七にふまるな庭のかたつむり
元結のぬる間はかなし虫の声
大絃(たいげん)はさらすもとひに落(おつ)る雁(かり)
なぞと吟(ぎん)じたる風流の故事を思浮(おもいうか)べたのであった。この事は晋子(しんし)が俳文集『類柑子(るいこうじ)』の中(うち)北の窓と題された一章に書かれてある。『類柑子』は私の愛読する書物の中の一冊である。

 私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。神田三崎町(かんだみさきちょう)の調練場跡(ちょうれんばあと)は人殺(ひとごろし)や首縊(くびくくり)の噂で夕暮からは誰一人通るものもない恐しい処であった。小石川富坂(こいしかわとみざか)の片側は砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の火避地(ひよけち)で、樹木の茂った間の凹地(くぼち)には溝(みぞ)が小川のように美しく流れていた。下谷(したや)の佐竹(さたけ)ヶ原(はら)、芝(しば)の薩摩原(さつまつばら)の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。
 銀座通に鉄道馬車が通って、数寄屋橋(すきやばし)から幸橋(さいわいばし)を経て虎(とら)の門(もん)に至る間の外濠(そとぼり)には、まだ昔の石垣がそのままに保存されていた時分、今日の日比谷(ひびや)公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に夕陽(ゆうひ)のさす景色は目(ま)のあたり武蔵野(むさしの)を見るようであった。その時分に比すれば大名小路(だいみょうこうじ)の跡なる丸(まる)の内(うち)の三菱(みつびし)ヶ原(はら)も今は大方赤煉瓦(あかれんが)の会社になってしまったが、それでもまだ処々に閑地を残している。私は鍛冶橋(かじばし)を渡って丸の内へ這入(はい)る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。何故(なぜ)というにこの閑地には繁茂した雑草の間に池のような広い水潦(みずたまり)が幾個所もあって夕陽の色や青空の雲の影が美しく漂(ただよ)うからである。私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那辺(へん)にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで幾度(いくど)も見た事があるような気がする。
 桜田見附(さくらだみつけ)の外にも久しく兵営の跡が閑地のままに残されている。参謀本部下の堀端(ほりばた)を通りながら眺めると、閑地のやや小高(こだか)くなっている処に、雑草や野蔦(のづた)に蔽(おお)われたまま崩れた石垣の残っているのが見える。その石の古びた色とまた石垣の積み方とはおのずと大名屋敷の立っていた昔を思起させるが、それと共に私はまた霞(かすみ)ヶ関(せき)の坂に面した一方に今だに一棟(ひとむね)か二棟ほど荒れたまま立っている平家(ひらや)の煉瓦造を望むと、御老中御奉行(ごろうじゅうごぶぎょう)などいう代りに新しく参議だの開拓使などいう官名が行われた明治初年の時代に対して、今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである。
 明治十年頃小林清親翁(こばやしきよちかおう)が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺(もくはんずり)にした東京名所の図の中(うち)に外(そと)桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に皇城(こうじょう)の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば稚気(ちき)を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相俟(あいま)って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に去歳(きょさい)木下杢太郎(きのしたもくたろう)氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の一端(いったん)を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。
 小林翁の東京風景画は古河黙阿弥(ふるかわもくあみ)の世話狂言「筆屋幸兵衛(ふでやこうべえ)」「明石島蔵(あかしのしまぞう)」などと並んで、明治初年の東京を窺(うかが)い知るべき無上の資料である。維新の当時より下(くだ)って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって甚(はなは)だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄(ひよりげた)の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉(つと)めている。しかし小林翁の版物(はんもの)に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは経(た)たぬ中(うち)、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次(ぜんじ)跡方(あとかた)もなく消滅して行きつつある。明治六年筋違見附(すじかいみつけ)を取壊してその石材を以て造った彼(か)の眼鏡橋(めがねばし)はそれと同じような形の浅草橋(あさくさばし)と共に、今日は皆鉄橋に架(か)け替えられてしまった。大川端(おおかわばた)なる元柳橋(もとやなぎばし)は水際に立つ柳と諸共(もろとも)全く跡方なく取り払われ、百本杭(ひゃっぽんぐい)はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残っている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の燈明台(とうみょうだい)、日本銀行前なる常盤橋(ときわばし)その他(た)数箇所に過ぎまい。官衙(かんが)の建築物の如きも明治当初のままなるものは、桜田外(さくらだそと)の参謀本部、神田橋内(かんだばしうち)の印刷局、江戸橋際(えどばしぎわ)の駅逓局(えきていきょく)なぞ指折り数えるほどであろう。
 閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。
 しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。芝赤羽根(しばあかばね)の海軍造兵廠(かいぐんぞうへいしょう)の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯(ありまこう)の屋舗跡(やしきあと)で、現在蠣殻町(かきがらちょう)にある水天宮(すいてんぐう)は元この邸内にあったのである。一立斎広重(いちりゅうさいひろしげ)の『東都名勝』の中(うち)赤羽根の図を見ると柳の生茂(おいしげ)った淋しい赤羽根川(あかばねがわ)の堤(つつみ)に沿うて大名屋敷の長屋が遠く立続(たちつづ)いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の幟(のぼり)が幾筋となく閃(ひらめ)いている様が描かれている。この図中に見る海鼠壁(なまこかべ)の長屋と朱塗(しゅぬり)の御守殿門(ごしゅでんもん)とは去年の春頃までは半(なか)ば崩れかかったままながらなお当時の面影(おもかげ)を留(とど)めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。
 その時分――今年の五月頃の事である。友人久米(くめ)君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚(ふるづか)が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は慶応義塾(けいおうぎじゅく)の帰りがけ始めて久米君とこの閑地へ日和下駄を踏入(ふみい)れた。猫塚の噂(うわさ)は造兵廠が取払いになって閑地の中にはそろそろ通抜ける人たちの下駄の歯が縦横に小径(こみち)をつけ始める頃から誰いうとなくいい伝えられ、既にその事は二、三の新聞紙にも記載されていたという事であった。
 私たち二人は三田通(みたどおり)に沿う外囲(そとがこい)の溝(どぶ)の縁(ふち)に立止(たちどま)って何処か這入(はい)りいい処を見付けようと思ったが、板塀には少しも破目(やぶれめ)がなく溝はまた広くてなかなか飛越せそうにも思われない。見す見す閑地の外を迂廻(うかい)して赤羽根の川端まで出て見るのも業腹(ごうはら)だし、そうかといって通過ぎた酒屋の角まで立戻って坂を登り閑地の裏手へ廻って見るのも退儀(たいぎ)である。そう思うほどこの閑地は広々としているのである。私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜(おんし)財団済生会(さいせいかい)とやらいう札を下げた門口(もんぐち)を見付けて、用事あり気に其処(そこ)から構内(かまえうち)へ這入って見た。構内は往来から見たと同じように寂(しん)として、更に番人のいる様子も見えない。私たちは安心してずんずんと赤煉瓦の本家(おもや)について迂廻しながらその裏手へ出てみると、僅か上下二筋(うえしたふたすじ)の鉄条綱(てつじょうこう)が引張ってあるばかりで、広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂った辺(あたり)から一帯に丘陵をなし、その麓(ふもと)には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気に興味百倍して、久米君は手早く夏羽織(なつばおり)の裾(すそ)と袂(たもと)をからげるや否や身軽く鉄条綱の間をくぐって向(むこう)へ出てしまった。私は生憎(あいにく)その日は学校の図書館から借出した重い書物の包を抱えていた上に、片手には例の蝙蝠傘(こうもりがさ)を持っていた。そればかりでない。私の穿(は)いていた藍縞仙台平(あいじませんだいひら)の夏袴(なつばかま)は死んだ父親の形見でいかほど胸高(むなだか)に締(し)めてもとかくずるずると尻下(しりさが)りに引摺(ひきず)って来る。久米君は見兼(みか)ねて鉄条綱の向から重い書物の包と蝙蝠傘とを受取ってくれたので、私は日和下駄の鼻緒(はなお)を踏〆(ふみし)め、紬(つむぎ)の一重羽織(ひとえばおり)の裾を高く巻上げ、きっと夏袴の股立(もちだち)を取ると、図抜けて丈(せい)の高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から一跨(ひとまた)ぎに跨いでしまった。
 二人は早速閑地(あきち)の草原を横切って、大勢(おおぜい)釣する人の集っている古池の渚(なぎさ)へと急いだ。池はその後に聳(そび)ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに久留米(くるめ)二十余万石の城主の館(やかた)が築かれていた時分には、現在水の漂(ただよ)っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば朧気(おぼろげ)ながら心の中(うち)に描出(えがきだ)した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気(おしげ)もなく破壊して兵営や兵器の製造場(せいぞうば)にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更(いまさら)の如くつくづくと思知るのであった。
 池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ賑(にぎやか)さである。鰌(どじょう)と鮒(ふな)と時には大きな鰻(うなぎ)が釣れるという事だ。私たちは水際(みずぎわ)を廻って崖の方へ通ずる小径(こみち)を攀登(よじのぼ)って行くと、大木の根方(ねがた)に爺(じじい)が一人腰をかけて釣道具に駄菓子やパンなどを売っている。機を見るに敏なるこの親爺(おやじ)の商法にさすがのわれわれも聊(いささ)か敬服して、その前に立止ったついで、猫塚の所在(ありか)を尋ねると、爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の彼方(かなた)なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかりだという事まで委(くわ)しく話してくれた。
 名所古蹟は何処(いずく)に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯(ただ)その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が繋(つな)がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れば更につまらない石のかけらに過ぎなかった。果してそれが猫塚の台石(だいいし)であったか否かも甚だ不明な位であった。私たちは旧造兵廠の建物の一部をば眼下に低く見下(みおろ)す崖地(がけち)の一角に、昼なお暗く天を蔽うた老樹の根方(ねがた)と、また深く雑草に埋(うず)められた崖の中腹に一ツ二ツ落ち転(ころ)げている石を見つけたばかりである。しかしここに来(きた)るまでの崖の小径と周囲の光景とは遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも幽邃(ゆうすい)なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。柳椎(しい)樫(かし)杉椿なぞの大木に交(まじ)って扇骨木(かなめ)八(や)ツ手(で)なぞの庭木さえ多年手入をせぬ処から今は全く野生の林同様七重八重(ななえやえ)にその枝と幹とを入れちがえている。時節は丁度初夏の五月の事とて、これらの樹木はいずれもその枝の撓(たわ)むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ寄生木(やどりぎ)が大樹の瘤(こぶ)や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。遠い電車の響やまた近く崖下で釣する人の立騒ぐ声にも恐れず勢よく囀(さえず)る小鳥の声が鋭く梢(こずえ)から梢に反響する。私たち二人は雑草の露に袴(はかま)の裾(すそ)を潤(うるお)しながら、この森蔭の小暗(おぐら)い片隅から青葉の枝と幹との間を透(すか)して、彼方(かなた)遥かに広々した閑地の周囲の処々(しょしょ)に残っている練塀(ねりべい)の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、何という訳もなく唯惆恨(ちゅうちょう)として去るに忍びざるが如くいつまでも彳(たたず)んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度(ひとたび)破壊されたその跡がここに年を経て折角荒蕪(こうぶ)の詩趣に蔽われた閑地になっている処をば、更に何らかの新しい計画が近い中にこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私たちはその事を予想して前以(まえもっ)て深く嘆息したのである。

 私は雑草が好きだ。菫(すみれ)蒲公英(たんぽぽ)のような春草(はるくさ)、桔梗(ききょう)女郎花(おみなえし)のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。閑地(あきち)に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝(どぶ)の縁(ふち)に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「蚊帳釣草(かやつりぐさ)」の穂の練絹(ねりぎぬ)の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「赤(あか)の飯(まま)」の花の暖そうに薄赤き、「車前草(おおばこ)」の花の爽(さわやか)に蒼白(あおじろ)き、「(はこべ)」の花の砂よりも小くして真白(ましろ)なる、一ツ一ツに見来(みきた)れば雑草にもなかなかに捨てがたき可憐(かれん)なる風情(ふぜい)があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にも咏(うた)われず、宗達(そうだつ)光琳(こうりん)の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の描いた『絵本虫撰(むしえらび)』を愛して止(や)まざる理由は、この浮世絵師が南宗(なんそう)の画家も四条派(しじょうは)の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花(そうか)と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾取(ひろいと)って、自由にこれを芸術化せしめた大(だい)なる功績を担(にな)うものである。
 私は近頃数寄屋橋外(すきやばしそと)に、虎の門金毘羅(こんぴら)の社前に、神田聖堂(せいどう)の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。

 戸川秋骨(とがわしゅうこつ)君が『そのままの記』に霜の戸山(とやま)ヶ原(はら)という一章がある。戸山ヶ原は旧尾州侯御下屋舗(びしゅうこうおしもやしき)のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる射的場(しゃてきば)となっている。この辺(あたり)豊多摩郡(とよたまごおり)に属し近き頃まで杜鵑花(つつじ)の名所であったが、年々人家稠密(ちゅうみつ)していわゆる郊外の新開町(しんかいまち)となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君曰(いわ)く


戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開(こうかい)した地(ち)である。目白(めじろ)の奥から巣鴨(すがも)滝(たき)の川(がわ)へかけての平野は、さらに広い武蔵野(むさしの)の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡(すべ)て耒耜(らいし)が加えられている。立派に耕作された畠地(はたち)である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹(たちき)が沢山にある。大きくはないが喬木(きょうぼく)が立ち籠(こ)めて叢林(そうりん)を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処(ここ)にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽(おお)われていて、春は摘草(つみくさ)に児女(じじょ)の自由に遊ぶに適し、秋は雅人(がじん)の擅(ほしいまま)に散歩するに任(まか)す。四季の何時(いつ)と言わず、絵画の学生が此処(ここ)其処(そこ)にカンヴァスを携(たずさ)えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の他(た)の場所に求むべからざるものである。凡(およ)そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに躊躇(ちゅうちょ)しない。然るに如何(いか)にして大久保の辺(ほとり)に、かかる殆んど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議な事にはこれが実に俗中の俗なる陸軍の賜(たまもの)である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場(しゃてきじょう)で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分は殆んど不用の地であるかの如く、市民もしくは村民の蹂躙(じゅうりん)するに任してある。騎馬の兵士が大久保柏木(かしわぎ)の小路(こみち)を隊をなして駆(は)せ廻るのは、甚(はなは)だ五月蠅(うるさ)いものである。否(いな)五月蠅いではない癪(しゃく)にさわる。天下の公道をわがもの顔に横領して、意気頗(すこぶ)る昂(あが)る如き風(ふう)あるは、われら平民の甚だ不快とする処である。しかしこの不快を与うるその大機関は、また古(いにしえ)の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるものである。思えば世の中は不思議に相贖(あいあがな)うものである。一利一害、今さらながら応報の説が殊に深く感ぜられる。
 秋骨君が言う処大(おおい)にわが意を得たものである。こは直(ただち)に移して代々木(よよぎ)青山(あおやま)の練兵場または高田(たかた)の馬場(ばば)等に応用する事が出来る。晩秋の夕陽(ゆうひ)を浴びつつ高田の馬場なる黄葉(こうよう)の林に彷徨(さまよ)い、あるいは晴れたる冬の朝青山の原頭(げんとう)に雪の富士を望むが如きは、これ皆俗中の俗たる陸軍の賜物(たまもの)ではないか。
 私は慶応義塾に通う電車の道すがら、信濃町権田原(しなのまちごんだわら)を経(へ)、青山の大通を横切って三聯隊裏(さんれんたいうら)と記(しる)した赤い棒の立っている辺(あた)りまで、その沿道の大きな建物は尽(ことごと)く陸軍に属するもの、また電車の乗客街上の通行人は兵卒ならざれば士官ばかりという有様に、私はいつも世を挙(あげ)て悉く陸軍たるが如き感を深くする。それと共に権田原の林に初夏の新緑を望み、三聯隊裏と青山墓地との間の土手や草原に春は若草、秋は芒(すすき)の穂を眺めて、秋骨君のいわゆる応報の説に同感するのである。
 四谷(よつや)鮫(さめ)ヶ橋(ばし)と赤坂離宮(あかさかりきゅう)との間に甲武鉄道(こうぶてつどう)の線路を堺(さかい)にして荒草(こうそう)萋々(せいせい)たる火避地(ひよけち)がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床(かみゆいどこ)へ行った帰途(かえりみち)または買物にでも出た時、法蔵寺横町(ほうぞうじよこちょう)だとかあるいは西念寺横町(さいねんじよこちょう)だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町(たにまち)へ下(お)り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然(おのず)とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄(ゆうばえ)とを眺めるのである。
 この散歩は道程(みちのり)の短い割に頗(すこぶ)る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠(すくな)くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船(こえぶね)と製造場(せいぞうば)とを背景にする水場(みずば)の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立(こだち)の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃(ひらめか)している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌(も)え出(い)で四辺(あたり)の木立に若葉の緑が滴(したた)る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層(ひとしお)汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与(あずか)れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺(そそ)ぐ夕暮なぞには破れた障子(しょうじ)にうつる燈火の影、鴉(からす)鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。
 この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その向(むこう)にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の土塀(どべい)が乾(いぬい)の御門というのを中央(なか)にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀登(よじのぼ)っている。日頃人通(ひとどおり)の少ない処とて古風な練塀(ねりべい)とそれを蔽(おお)う樹木とは殊に気高(けだか)く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五本乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ歩寄(あゆみよ)った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない蘆(あし)の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった凹味(くぼみ)の底へと、大方(おおかた)御所から落ちて来るらしい水の流が大きな堰(せき)にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと蛍(ほたる)が飛ぶにちがいない。私はこの夕(ゆうべ)ばかり夏の黄昏(たそがれ)の長くつづく上にも夕月の光ある事を憾(うら)みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと踵(きびす)を返した。
 鮫ヶ橋の貧民窟は一時代々木(よよぎ)の原(はら)に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった暁(あかつき)四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下(みおろ)しでもすると国家の恥辱(ちじょく)になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の空景気(からげいき)で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、西念寺(さいねんじ)の急な坂下に依然として剥(はげ)ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。当路(とうろ)の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の取除(とりのけ)を急ぐが至当であろう。

 現在私の知っている東京の閑地(あきち)は大抵以上のようなものである。わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署後(あと)の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡(あと)に観音ができあたりは日々(にちにち)町になって行く、遠からず芸者家(げいしゃや)が許可されるとかいう噂さえある。
 芝浦(しばうら)の埋立地(うめたてち)も目下家屋の建たない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は他(た)にあるまい。夏の夕(ゆうべ)、海の上に月の昇る頃はひろびろした閑地の雑草は一望煙の如くかすみ渡って、彼方(かなた)此方(こなた)に通ずる堀割から荷船(にぶね)の帆柱が見える景色なぞまんざら捨てたものではない。
 東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、孜々(しし)として東京市の風景を毀損(きそん)する事に勉めているが、幸にも雑草なるものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き毛氈(もうせん)を延(の)べ、月の光あってその上に露の珠(たま)の刺繍(ぬいとり)をする。われら薄倖(はくこう)の詩人は田園においてよりも黄塵(こうじん)の都市において更に深く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。




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