押川春浪 南極の怪事






南極の怪事

押川春浪


      一

 この怪異なる物語をなすにつき、読者諸君にあらかじめ記憶してもらわねばならぬ二つの事がある。その一は近頃ヨーロッパのある学者仲間で、地球の果に何か秘密でも見出さんとするごとく、幾度の失敗にも懲りず、しきりに南極探検船を出しておる事。その二は、いわゆる歴史の黒幕に蔽われたる太古、ぼうとして知るべからざる時代に、今は蛮地と云わるるアフリカ州の西岸、東に限りなき大沙漠を見渡すチュス付近に、古代の文明を集めたる一王国があって、その名は瑠璃岸国(るりがんこく)と口碑に伝えられているが、この国の最も盛んなりし頃、一人の好奇(ものずき)なる国王あり、何か物に感じたことでもあったものと見え、あるとき国中の材木を集めて驚くべき巨船を造り、船内の構造をすべて宮殿のごとく華麗にし、それに古代のあらゆる珍宝貨財と、百人の勇士と百人の美人とを乗せ、世界の諸国を経めぐらんとその国の港を出帆した。しかるにその船が南太平洋の波濤(なみ)にもまれているうち、大暴風にでも遭ったものか、それとも海賊に襲われたものか、まったく行方不明になって、南太平洋の波濤(はとう)は黙して語らず。

「どこにどうなってしまったか」という疑問が、数千年過ぎた今なお残っているという事。この二つの事――すなわち現時ヨーロッパのある学者仲間が、しきりに南極探検船を出しておる事と、古代文明国の一巨船が、永久の疑問を残して行方不明になった事とは、表面の観察では何等の関係もないようだ、イヤこうあらためて書けば、なんだか関係のあるように思う人があろうが、考えてみたまえ、数千年以前の物は、石の柱でも今は全く壊(くず)れてしまったほどだ、いわんや木で造った巨船においておやだ、好奇(ものずき)な学者先生いかに探しまわっても、いまさらそのような物の見つかる道理はあるまい。

 しかしこの世のなかには理外の理がある、次の物語を読んだ諸君は、さてもこの世のなかには、そのような秘密――そのような不思議なことがあるかと、眼をまるくして驚くだろう。


      二

 頃はポルトガル第一の科学者モンテス博士の南極探検船が、ある夜秘密にセントウベス湾を出発した、二カ月ほど以前の事である。あまり人の行かぬデルハ岬の海岸に、二人の奇麗な娘が遊んでおった、二人ともモンテス博士の愛嬢で、景色よき岬の上には博士の別荘があるのだ。

 二人の娘は楽しそうに、波打際を徘徊しながら、蟹を追い貝を拾うに余念もなかったが、しばらくして姉娘(あねむすめ)は急に叫んだ。

「あら! 妙なものが流れてきてよ」

 妹娘(いもうとむすめ)もその声に驚き、二人肩と肩とを並べて見ていると、今しも打ち寄せる波にもまれて、足許にコロコロと転んできたのは、一個(ひとつ)の真黒なビールの空瓶だ。

「おや、こんな物、仕方がないわ」と、姉娘は織指(せんし)に摘まみあげて、ポンと海中に投げ込んだが、空瓶はふたたび打ち寄せる波にもまれて、すぐまた足許にコロコロと転んできた。

「本当に執拗(しつこ)い空瓶だこと」と、今度は妹娘が拾って投げようとすると、その時背後(うしろ)の方より、

「二人とも何をしている、拾ったのは何んだ」と呼んだ者がある、振り向いて見ると父のモンテス博士で、ニコニコしながら進みよる。二人とも嬉しそうに、左右からその首に縋(す)がりつき、

「阿父(おとう)様、この瓶、みょうな瓶なんですよ、ちょうど生きているように、幾度投げてもコロコロと――」

「ホー、海員の飲むビールの空瓶だな」と、博士は妹娘の手からその瓶を取って眺めたが、

「これは奇妙だ、この瓶の口栓(キルク)はすでに腐っておる、そのうえ瓶の外に生(む)している海苔(こけ)は、決してこの近海に生ずる物ではない、南洋の海苔(こけ)だ、南洋の海苔(こけ)だ、このような海苔(こけ)の生じているので見ても、この瓶のよほど古い物である事が分る、思うに難破船の甲板からでも投げたものだろう」と、さすがはポルトガル第一の科学者と云わるるほどあって、その着眼がなかなか鋭敏だ。博士は斯(か)く云いつつ、瓶を差し上げて太陽の光線(ひかり)に透かしてみたが、

「オオ、あるある果してみょうな物があるある」と叫んで、好奇心は満面にあふれ、口栓(キルク)を抜くのももどかしと、かたわらの巖石(いわ)をめがけて投げつけると、瓶は微塵に砕け、なかから黄色い紙に何か細々と記した物が出て来た。

 博士は急ぎ拾い上げ、鼻眼鏡を取り出して鼻にかけ、眉の間に皺を寄せながら熱心に読み始めた。なにしろ鉛筆の走り書きで、文字も今は朦朧となっているが、読む事数行にして、博士はにわかに愕然たる様子で、

「ホー、怪異(ミラクルス)! 怪異(ミラクルス)! 怪異(ミラクルス)!」と、あたかも一大秘密でも見出せしごとく、すぐさまその黄色い紙を衣袋(かくし)に押し込み、物をも云わず、岬の上の別荘めざして駆け出した。

 二人の娘は呆気にとられ、

「阿父様(おとうさま)、なんですなんです」と、その跡を追いかけたが、博士は振り向きもせず、別荘の自分の書室に飛び込むやいなや、扉に鍵をピンとおろし、件(くだん)の不思議なる書面を卓上に押しひろげ、いよいよ深く眉の間に皺を寄せて、ふたたび熱心に読み始めた。

 二人の娘は室の外まで押し寄せきたり、鍵のおろされたる扉をコトコトと叩いて、

「阿父様(おとうさま)、何か珍しい事なら聴かせて頂戴(ちょうだい)な、あら鍵なんかおろしてひどいこと――」と呟けど、博士は知らぬ顔、「お前達の聴いても役に立たぬ事だよ」と、一声云ったばかりである。じつに博士は娘にまでも秘密にするほどの事であるが、余は今敬愛なる読者諸君のためにこの書面に書いてある世にも不思議なる出来事を、少しも隠さず紹介する事としよう。


      三

 書面はまず左のごとき悲壮なる文字をもって始まった。

 この瓶もし千尋(ちひろ)の海底に沈まずば、この瓶もし千丈の巖石(がんせき)に砕けずんば、この地球上にある何人(なにびと)かは、何時か世界の果に、一大秘密の横たわる事を知り得べし、余はエスパニアの旅行家ラゴンと云うものなり、世界一周の目的をもって本国を去り、ヨーロッパ、アジア、アメリカの各地を遍歴して、到る処に珍らしき物を見、面白き境遇を経て、ついに来りし処はアフリカ西岸のモロッコ国なり、ここより北に行く船に乗じ、ジブラルタル海峡を渡れば、安全にふたたび本国に帰る事を得べかりしに、余はなんたる痴漢ぞや、ほとんど世界の七分の一を経めぐって、余の好奇心はいまだ満足せず、さらに珍らしき場所に到り、面白き物を見んと、モロッコ国マザガン港より一種異様なる船に乗れり、この船は三本マストの帆前船(ほまえせん)にて、その舷(ふなべり)は青く錆びたる銅をもって張られ、一見してよほど古き船と知らる、船長はアフリカ人にて、色は赤銅(しゃくどう)のごとく、眼は怪星のごとく、灰色の鬚をもって顔の半面をおおわれ、きわめて粗野の人物と見ゆ、その配下(てした)には七人の水夫あり、皆土人にて、立って歩まずば、猛獣かと疑わる、しかし性質は案外温順のようなり。

 この船は元来真珠取船にて、アフリカの西岸に沿い、南太平洋を渡って、ほとんど人外境とも云うべき南方に向うものなれば、旅客や貨物を載すべきものにあらず、しかるを余はいかにして便乗せしかと云うに、ちょうどモロッコ国マザガン港の桟橋に達せし時、この異様なる船の桟橋に近く碇泊せるがふと眼に入り、傍人にいかなる船ぞと問えば、真珠取りにと明日はこの港を出帆し、世人の知らざる南方の絶島に行く船なりと云うに余の好奇心はにわかに動きて矢も楯もたまらず、ただちに端舟(はしけ)を漕いでその舷門に至り、言語通ぜねば手真似をもって便乗をこい、船長の拒むをしいて、二百ドルの金貨を握らせ、ようやく便乗を許されしなり。もとより客室など云う気のきいたものはなければ、余は船の最も底の倉庫のごとき処に毛布を敷き、そこを居室兼寝室と定めしも、天気晴朗なる日はそのような薄暗き処に閉じこもる必要なし、余は航海中の多くを風清き甲板上に暮すつもりにて、一日も早く世人の知らざる南方の絶島に着し、真珠取りの面白き光景を見んと、それをのみ唯一の楽しみとせしが、あにはからんやこの船こそ、余のためには魔の船となりけり。


      四

 この船は名を「ビアフラ」と云う、余は便乗を許されし翌日正午頃マザガン港を出発せり。針路を南に南にと取って、アフリカの西岸にそい、おりから吹く順風に帆は張り切れんばかり、舳に砕くる波は碧海に玉を降らし、快速力は汽船もおよばぬばかりなり。

 そもそもアフリカ西岸の航路は、以前はヨーロッパよりアジアに向かう唯一の航路にして、喜望峯を迂回して行く船の幾度(いくたび)か恐しき目に遭いし事は、今なお世人の記憶せる処ならん、しかるにスエズ運河の通じて以来、普通の船舶にてこの航海(こうろ)を取るものはきわめてまれに、長き航海中汽船のごときはほとんど見んとして見るを得ず、ただ三角帆の怪しき漁船の、おりふし波間に隠見せるを望むのみ、昔はこの辺に絶えず海賊横行せりと聞けど、今はかかる者ありとも覚えず。

 余は昼に大抵帆船「ビアフラ」の甲板に出で、左に烟(けむり)のごときアフリカ大陸を眺め、右に果しなき大海原を見渡し、夜は月なき限り、早くより船底の寝室に閉じこもって眠る。かかる間にブランコ岬の沖を過ぎ、昔は妖女住みしと云うシエルボロ島の間を抜け、航海三十五日目にして寄港せしはアフリカ南端のテーブル湾なり、ここにて船は飲水食料等を充分に補充し、いよいよ同湾を去ってさらに南へ向えば、もはや右を見るも左を見るも陸の影はなく、振り返れどアフリカ大陸の影さえ消えて、前途は渺茫として水天につらなるのみ、余は何となく心細き感に打たれたり。

 かくてアフリカの尖端テーブル湾を去って五日ほど過ぎ、風なぎて船脚きわめて遅くなりし夕暮、余は甲板上の前檣(ぜんしょう)にもたれて四方を見渡すに、眼に入るかぎり船もなく島もなく、ただ気味悪きほどの蒼き波間(なみま)に、一頭の巨鯨の潮ふけるが見ゆるばかり、かかる光景を見ては、いかなる人といえども一種名状すべからざる寂寞の感に打たるるものなり、今船はいかなる状態にていかなる方角に進めるやも分らず、余は意気地なきようなれど、心細さは次第々々にましてついに堪らず、おりから面前に歩み来れる船長に向っていきなりに問えり、「めざす絶島にはいつ達すべきや」と、もとより手真似の問答なればしかとは分らねど、船長は毛だらけの手を前後左右に振って

「達すべき時にあらざれば達せず」と、無愛相に答えしようなり。彼はそのまま行き過ぎる、余はとりつくしまもなし、艫(とも)の方を見れば七人の水夫、舵を取り帆を操りながら口々に何か語り合う、その声あたかも猿のごときが、ふと何物をかみつけけん、同時に話声(わせい)をやめてとある一方に眼を注ぐ、余も思わず釣りこまれて、彼等の眼の向う方角を眺むれば、そこは西南の方水天一髪の辺、かすかにかすかに一点の黒き物見ゆ、巨鳥か、鯨か、船か、島か。島ならばあれこそめざす絶島と思えど、どうも島にてはなきようなり、島にあらずば何か、余はいかにもしてその正体を見届けんと、なおしばらく甲板を去らざりしが、かの黒き物は近づくごとく、近づかざるごとく、そのうちに日はまったく暮れて海上暗くなり、わが船上に一点の燈火輝くのみ、四方の物まったく見えずなりしかば、余は詮方なく、船中に唯一個ある昇降口を下って、船底の寝室に入り、このような時には早く寝ね、夢の間に一夜を過すにかぎると、すぐさま毛布をかぶって身を横たえしが、胸は異様にとどろいて容易に眠られず、これぞいわゆる虫の知らせと云うものならん。


      五

 しかし余は一時間とたたぬうちにうつらうつらとなれり、眠れる間は時刻のたつを知らず、いつの間にか真夜半(まよなか)となりしならん、余は夢に恐ろしく高き塔に昇り、籠手(こて)をかざしてあまねく世界を眺めいるうち、フト足踏みすべらして真逆様に落つると見、アッと叫んで眼をさませば、塔より落つると見しは夢なれど、実際余は、初め船底の右舷に眠りいたりしが、いつの間にか左舷にまろびいたるなり。オヤオヤと叫んで立ちあがるに、船底は大波を打つごとく、足許ふらふらとして倒れんとす、さては余の眠れる間に、天候にわかに変り、海上はよほど荒るると見えたり、願わくは波速かに静まれと祈りつつ、ふたたび船底に身を横たえる、途端もあらせず、船は何物かに衝突しけん、凄まじき音して少しく右舷に傾けり、「暗礁! 暗礁!」と余はただちに叫べり、人外境とも云うべきこのような大海原にて、他船に衝突すべしとは覚えねば、余はいかなる暗礁に衝突せしかを見んと、バネのごとく跳ね起き一散走り、足許定まらず幾度かまろばんとするをようやくこらえて、船底と甲板との間にただ一個ある昇降口めざして走りゆくに、その途々(みちみち)余は甲板上に起る異様なる叫び声と、人々の激しく乱れ騒ぐ足音とを聴けり、されどかかる叫声(きょうせい)とかかる足音とは、船が暗礁に乗りあげし時など、常に起る事なれば格別怪しみもせず、やがて船内より甲板上に出ずる梯子に達し、その梯子を昇るも夢中にて、昇降口よりヒョイと甲板上に顔を現わせしが、その時余の驚愕はいかばかりなりしぞ。空には断雲の飛ぶ事矢のごとく、船は今想像もできぬほどの速力をもって、狂風に吹かれ怒濤を浴びつつ走りいるなり、されど余の驚きしはその事にあらず、見よ! 見よ! 断雲の絶間より、幽霊火のごとき星の照らす甲板上には、今しも一団の黒影入り乱れて闘いおるなり、人数およそ二十人ばかり、我が帆船の水夫のみにはあらず、オオ、これ何事ぞ! 何事ぞ! 船は決して暗礁に衝突せしにあらず、先刻何物にか衝突せし響きの聴えしは、これ海賊船がわが船に乗りかけしなり、日の入るころ水天一髪の彼方はるかに、一点の怪しき黒影見えしは、あれこそ恐るべき海賊船なりしならん、今しも海賊はわが船の甲板に乱れ入り、その数およそ十四五人、手に手に兇刃を閃めかして、本船の船長初め七人の水夫を取りかこみ、斬って斬って斬りまくる、血は飛んで瀑布のごとく、見る間にわが水夫の四五人は斬り倒されたり、余はあまりの恐ろしさに思わず昇降口の下に首を縮込めたり。


      六

 帆船「ビアフラ」の甲板は、今修羅の巷なり、風は猛り波は吼え、世界を覆えす大地震に遭いしがごとき船上にて、入り乱れて闘う海賊と船員との叫び声は、さながら現世(このよ)にて地獄の声を聴くに異らず。

 余はあまりの恐ろしさに、一旦甲板上に現わせし首をすっこめ、昇降口の下、梯子の中段に小さくなっていたりしが、耳を澄ませば、船員の叫び声らしきは次第々々に低くなり、狼の吼(ほ)ゆるがごとき海賊の声のみいよいよ鋭くなりゆくに、余は気が気にあらず、いわゆる恐(こわ)いもの見たさに、ふたたびそっと昇降口の蓋(おおい)を開き、星影すごき甲板上を眺むるに、ああなんたる光景ぞや、七人の船員中六人はすでに斬り倒され、生き残れるは船長一人のみ、これすら身に数カ所の重傷を負い、血に染みながら屍と屍の間を逃げまわれば、十数人の海賊は兇刃を閃めかして追いまわす、船長は泣けり叫べり、屍を取って楯となし、しばし必死と防ぎしが、多勢に無勢到底敵するあたわず、大檣(たいしょう)をまわり羅針盤の側を走り、船首より船尾に逃げ行きしが、もはや逃ぐるところどこにもあらず、後よりは兇刃すでに肉薄するに、今はたまらず、身を跳らして、逆巻く波間に飛び込まんとする一刹那、一海賊は猛虎のごとく跳(おど)りかかりヤット一声船長を斬りさげたり、船長の躰(たい)は真二つに割れ、悲鳴を揚ぐるいとまもあらず、パッタリと倒る、血は滾々(こんこん)と流れて、その辺は一面に真紅となれり、あまりの悲劇に、余は船長の倒れると同時に、思わずアッと叫びしが、ああこの声こそ、余のためには大災難の声なりき。

 すでに船員の全部を屠りつくして、もはや船中には人なしと思いいたりし海賊等は、余の声を聴き痛く驚きし様子にて此方(こなた)を振り向きしが、余の姿を見出すやいなや、悪鬼のごとき眼を光らして口々に何か叫びながら、切先揃えてドヤドヤと押し寄せ来たり、サア大きなり、捕えられてはたまらぬと、余はただちに昇降口の下に首をすくめ、素早く入口の蓋を閉ざせり、その瞬間海賊等ははや入口の周囲に来り、頭上の床板踏み鳴らす足音も荒々しく狼の吼ゆるがごとく、また猿の叫ぶがごとく罵り騒ぐは、ここ開けよ開けよと云うならん、開けては一大事なり、余は両手を伸ばし、死力を出して下より蓋(おおい)を押えおる、海賊等は上よりこれを引きはなさんとす。幸いこの帆船(ほまえせん)には船底と甲板との間に、この昇降口一個あるのみなれば、ここぞ余のためにはサーモピレーの険要(けんよう)とも云うべく、この険要破れざる限りは、余の生命続かん、生命のあるかぎりは、いかでかここを破らすべきと、余は必死なり、海賊等も必死なり。海賊等は昇降口の容易に開かれざるに、怒り狂い、足をあげて蓋(おおい)を蹴たり、されど蓋(おおい)の表は滑かに、鉄の板一面に張られたれば、なかなか破るるものにあらず。

 そのまにも海はますます荒れまさるようにて、帆綱にあたる風の音はピューピューと、波は次第々々に高まりて舷を打つ、かかる大荒れをも恐れず、海賊等は是非ともこの入口を開かんとするなり、やがて余の頭上にあたり、ガチンガチンと異様なる響聴(ひびきのきく)を始めしは、彼等がどこよりか鉄槌を提(ひっさ)げ来り、一気に入口を打ち砕かんとするなるべし、蓋(おおい)を握れる余の手は、その響を受けて非常なる痛みを覚え、鉄槌の下る事七八度(たび)目(め)にして、余は遂にたええずその手を放てり、たちまち見る入口の一方は砕けたり、仰げば悪鬼のごとき海賊の顔見ゆ、たちまち二三人はその破れ目に手を掛け、嘲笑うがごとき奇声を放って蓋(おおい)を引起せば、蓋(おおい)はギーと鳴って開くこと五寸! 一尺! 一尺五寸、剣(つるぎ)を逆手に握れる海賊の一人は、眼を怒らして余を目懸けて飛び込まんとす、もはや絶対絶命なり、余は思わず呀(あっ)と叫んで船底に逃げ込まんとせしが、その途端! 天地も崩るるがごとき音して、船はたちまち天空に舞い上り、たちまち奈落に沈むがごとく、それと同時に、余は梯子の中段より真逆様に船底に落ち込み、失敗(しまっ)たと叫びしまでは記憶すれど、その後は前後正体もなくなったり。


      七

 気絶せる間は眠れると同じくまた死せると同じく。時刻のたつを知らず、それより一時間過ぎしか一日過ぎしか、それとも一週間以上過ぎしやを覚えねど、余は夢ともなく現ともなく、ふとしたたかに余の頭を打つ者あるように感じて眼を開けば、余はなお生きてあるなり、心づけば船の動揺はなお止まず、余はある時間の間気絶せる後、またもや打ち寄する巨浪(おおなみ)のために、船は激しく傾き、一方より一方にまろんで頭を打ち、今ようやく息を吹返せるなり、他人が余の頭を打ちしにあらず、余自ら頭を打ちつけしなり、とにもかくにも起きあがってその辺を捜りまわるに、何時の間にか海水は浸入して、余の全身は濡鼠のごとくなりいたり、船底より浸水せしものか、それとも、甲板の昇降口より波打込みしものか分らねど、何しろこの海水のために余の身辺の燈火(ともしび)は消えて四方は真暗く、ただ船内ズット船尾の方に高く掲げられたる一個の船燈のみが、消えなんとしていまだ消えず、薄気味悪き青光をかすかに洩すのみ、時刻も分らず場所も分らず、時計を出して見るに、その針はすでに停まりいたり、余の時計は二日持(もち)にて、かの悲劇の起る二三時間前に龍頭を巻きたれば、この時計の停まるを見ても余は気絶せるまま少なくも二日以上を過せるものと知らる、それにしても彼の海賊等はいかにせしかと、余は静かに立ちあがって耳を澄ますに、船外には相変らず風荒れ波吼ゆるのみ、されど人声とては少しも聴えざりけり。

 余は気味悪さにたえず、何時までも船底に潜みおらんかと思いしが、さりとて海賊等がいかになりしかを知らぬうちは安心できず、ついに意を決し、抜足差足して昇降口の方に向えり、梯子を半ば昇りて耳を澄ますにやはり人声は聴えず、心づけば先刻海賊等が開きかけし蓋(おおい)は、何時の間にか以前のごとく閉ざされてあり、思うに海賊が半ばその蓋(おおい)を引き上げし時、彼の意外なる大震動のために思わずその手を放し、蓋(おおい)はふたたび落ちて以前のごとく昇降口を閉ざせしならん、されど海賊が鉄槌にて打ち砕きし入口の破れ目はそのままにて、そこより海水は船内に打ち込みしなり、鉄の欄干(てすり)も梯子も皆濡れて、油断をすれば余は滑り落ちんとす、今はやや海上静まりしと見え、怒濤の破れ目より打込むような事はなけれど、決して暴風(あらし)のやみしにあらず、船の動揺はなかなか激しくして、時々甲板上に巨浪(おおなみ)の落来る音聴ゆ。

 梯子の中段に立ち止まって余は耳を澄ます事少時(しばし)、ここより上に昇るべきか昇るまじきか、甲板上になお海賊おらば、余はただちに殺されん、されど甲板上の光景を見ぬうちはどうも安心できず、余はついに意を決し、殺さるる覚悟にてふたたび昇り始めぬ。

 梯子を昇りつくし、それでもなるべく音の立たぬよう昇降口の蓋(おおい)を開き、じつに恐る恐る半身を突出して甲板上の光景を眺めしが、オオ! オオ! オオ! なんたる甲板上の光景ぞや、余は生れて以来、かくのごとく意外なる光景を見し事なし、定めて甲板上には船員の死屍散乱し、海賊等はなお猛威を振いおる事と思いしに、余の予想はまったく反せり、甲板上は寂寞としてほとんど何物もなし、海賊もおらねば船員の死骸もなし、余はあまりの事に驚きかつ怪しみ、ただちに甲板上に跳り出でてなおよく見るに、甲板上のあらゆる物は破壊され、船員の死骸などは洗去られしものならん、今は血一滴も残りおらず、そのうえ羅針盤は砕かれ、船上にありし二個の端舟(ボート)も海中に呑み込まれ、船首の方に立ちたりし船長室も、そのままどこにか持ち行かれしものならん、影も形もなく、この船は元来三本の檣(ほばしら)を備えしものなるが、その二本はなかほどより折れて、これまた帆とともに行方を知らず、広漠たる船上に残るはただ一本の大檣(たいしょう)のみ、この大檣は甲板の中部にあり、檣上より一面に張られたる帆は、すでにその三分の一以上破れたれど、ものすごき疾風を受けて、船の走る事矢のごとし、余はただ一面の帆にて何故(なにゆえ)に船がかくまで速く走るやを知らず、なに心なく大檣(たいしょう)のそばに近づかんとせしが、フト見ればその大檣(たいしょう)の下には、一個の恐ろしき人間立てり、余は思わず逃げ出したり、逃げながら振返って見るに、彼の人間は余を追わんともせず、依然として身動きもせず立ちしままなり、ハテ不思議なる事かなと、臆病なる余も足を停めてなおよく見れば、追わぬはずなり身動きもせぬはずなり、彼はすでに死して首をガックリ垂れおるにて、その服装より見れば海賊の巨魁(きょかい)ならん、剣を甲板上に投げ棄て、大檣(たいしょう)にその身を厳しく縛りつけいたり、実に合点の行かぬ事ながら、しばらく考えて余はハハアと頷きたり、思うに余が気絶せし瞬間船に大震動を来せしは、海底噴火山の破裂のため、驚くべき巨浪(きょろう)が船上に落来りしか、しからずば船が大龍巻にでも巻き込まれ、甲板上の海賊等は、余を殺すより先に自分等の身が危くなり、一同驚き騒ぐ間に、彼の男は海賊の巨魁だけに素早くその身を大檣に縛りつけ、巨浪に持ち行かるる事だけは防ぎしならん、されど人を殺せし天罰は免かるるあたわず、幾度か打寄する巨浪(おおなみ)のために呼吸はとまり、船具の破片等にその身を打たれて、身体を大檣に縛りつけしまま他界の鬼となりしならん、かく心づいて見れば、彼の額や胸の辺りには幾多の打撲傷あり、今や血の痕もなけれど、傷口は海水に洗われて白くなり、かえって物凄き感をあたう、その他の海賊等は云うまでもなく巨浪(きょろう)に呑み去られしものならん。


      八

 余はこの惨憺たる光景を見て、じつに名状すべからざる悲哀に打たれたり、およそ三十分間ばかり呆然と甲板上に立って四方を見渡すに、見渡すかぎり果しなき大海原にて、島も船も見えぬ事は、余が気絶以前と少しも異らねど、天地の光景はその時より数倍淋しく物凄くなれり、ここはいなかる海上なるや分らぬは云うまでもなく、船は今いかなる方角に向って走りつつあるやも分らず、羅針盤を見んにも羅針盤はすでに砕けたり。

 それよりもなお心細きは、今は昼なるや夜なるや分らぬ事なり、時計はとまり、空を眺むるも太陽は見えず、また星も月も見えず、四方は真暗と云うにはあらねども薄暗く、空はあたかも泥をもって塗り込められしがごとくすべての物皆濁れる黄色に見ゆ、さればこそ余は先刻死せる海賊の巨魁(きょかい)を、生ける恐ろしき人間と見誤りしなり。

 ああかかる不思議なる光景は世界のどこにありや、余は二三分間黙考せしが、たちまち我ながら驚くごとき絶望の叫声(きょうせい)を発せり。

「永久の夜! 永久の夜!」

 永久の夜と云う事がこの地球上にあり得べきや、しかりあり、いまだ見し人はなしと云えど、この地球上―人間の行くあたわざる果に到れば、そこには昼なく常に夜のみと云う事をかつて聞けり。

「オオ永久の夜! 永久の夜!」

 余の乗れる帆船「ビアフラ」は、人間の行くあたわずと云う地球の果に向い、永久の夜に包まれて走りおるなり、ああ帆船「ビアフラ」は、余を乗せてどこまで走らんとするか、昔人は云えり、地球の果は一大断崖にて船もしそこに至れば、悪魔の手に引込まれて無限の奈落に陥込(おちこ)むべしと、今はそのような事を信ずる者はあらざれども、地球の果の断崖なると否(いな)とを問わず、余の船は今一刻々々余を死の場所へ導きつつあるなり、シテ見れば余が気絶以前に見たりし夕日は、この世にて太陽を見し最後なりしか、絶望! 絶望! 余はほとんど狂せんとせり、いかにもして地球の果には行きたくなし、それには船を停めざるべからずと、夢中に走って船首に至り、平常ならばとても一人で動かす事も出来ぬ大錨を、双手に抱きあげて海中に投げ込めり、されど猛獣のごとく走れる船を、錨にて停めんとするはなんらの痴愚ぞ、錨は海底に達せざるに、錨綱にフッと切れて、船の走る事いよいよ急なり。

 唯一の錨もすでに海底に沈めり、余は絶望のあまり甲板に尻餅つきしが、しばらくして心つけば、余の全身は板のごとくなりいたり、なにゆえぞと問うなかれ、余は先刻よりあまりの驚きと悲しみのために、今まではそれに思い至らざりしが、この辺海上の寒気の激しさよ! 吐(つ)く息もただちに雪となり凍(こうり)とならんばかりにて、全身海水に濡れたる余の衣服は、何時の間にか凍りて板のごとくなりしなり、衣服はすでに甲板に凍りつきて立たんにも容易に立つあたわず、余はむしろこのままに凍え死なん事を望めり、されどまた多少の未練なきにあらず、容易に立つあたわざるを無理に立てば、氷は離れずベリベリと音して衣服は破れたり、露出(むきだ)されたる余の肌に当る風の寒さよ、オオ風と云えば、風はまたますます激しきを増し来りしようなり、海は泡立ち逆巻き、怒濤はふたたび甲板に打ち上げ来って、巨浪(きょろう)は余を呑み去らんとす、風さえ余を吹飛ばさんとす、余はあまりの恐ろしさに堪えず、思わず船底に逃げこめり。


      九

 船底に逃げこみ、昇降口の蓋(おおい)を閉せば、その陰鬱なる事さながら地獄のごとし、しかり、ここはたしかに地獄なり、余の頭上にあたる甲板上には、今なお身を大檣(たいしょう)に縛(ばく)せるまま死せる人間もあるにあらずや。

 船底は前にも云えるがごとく、昇降口の破れ目より打ちこみ来りし海水に濡れて、ほとんど坐るに所もなし、余は何よりも寒さに堪えねば急ぎ衣服を着替えんと余のトランクを開くに、幸い衣服は濡れずにあり、ただちに濡れたるを脱いで新しきを身に着(つ)けしが、二枚や三枚にては到底寒気を防ぐあたわず余はトランク中のすべての衣服を着尽したれど、なお寒さをしのぐあたわず、毛布は着んにもすでに濡れたり、いかがはせんと思案せしが、ヨシヨシ船尾の方にあたる倉庫中には、たしかに船員の衣類があるはずなりと、余はただちにそこに走り、なお消えやらで天井に懸りいたりし船燈を取って倉庫中を捜しまわるに、衣類とては一枚もあらざれど、片隅には燈油箱などと相列んで、数十枚の毛布積み重ねてありたれば、試みに手を触るるに、ここには海水打ちこみ来らざれば濡れてはおらず、天の与えと打喜(うちよろこ)び、ただちに三枚の毛布を重ねて衣服の上にかぶり、ようやく少しく寒気をしのぎたり。

 しかるにフト心づけば、余の手に提げたる船燈は、もはや油尽きしものか、青き光ゆらゆらと昇って今にも消えんばかり、この船燈こそ船中に残る唯一の光にて、マッチのごときはことごとく湿りたりと覚えたれば、この火を消しては一大事と、余はあわて狼狽(ふた)めき、慄(ふる)う手に側の燈油を注ぎ入れて、辛くも火を消さずに済みたり、この火消えなば、余は実に暗中に煩悶して、暗中に死すべかりしなり。

 火は以前より多少明るくなれり、されど火明るくなりしとて、余に希望の光(ひかり)微見(ほのみ)えしにあらず、余は刻一刻死の場所に近づきつつあるなり、船は瞬間も休まず地球の果に向って走りつつあるなり、ああこの船の行着く先はいずくぞ、今は真珠の多く取れると云う絶島に流れ寄らんなどとは思いもよらず、地球の果には一大氷山ありと云う、その氷山こそが余の最期の場所ならん。

 およそ二三十分して余はまた寒気にたえずなれり、今までの着物にてはとてもしのぶあたわず、余はその上にさらに数枚の毛布を重ねたり、毛布を重ねつつ耳を澄ませば、あら不思議! いままでは舷を敲くものはただ波の音のみなりしが、二三分以前より打ち寄する波とともに、たえずゴトンゴトンと舷にあたるものあり、難船の破片か怪獣か、なんにしても訝(いぶか)しき事よと、余は恐くはあれど再び甲板に出でて見れば、天地は依然として昼とも夜とも分らぬ光景なり、余は吹き来る暴風に吹飛ばされてはたまらず、また打上ぐる波に呑去られてはたまらずと、海賊の巨魁(きょかい)が身を縛して死しいる大檣にシカと縋付(すがりつ)いて眺むるに、暗憺(あんたん)な海上には海坊主のごとく漂える幾多の怪物見ゆ眼を定めて見れば、怪物と見えしは、これ小舟のごとき多くの氷塊なり、この氷塊の流れおるを見ても、船のすでに南氷洋の奥深く来りし事を知るに足らん、大氷山ははやまぢかなり、地球の果ははやまぢかなり、余はいかにもしてそこに到らぬ前に船を停めんと苦心焦慮せり。オオこの風! この風! この風を孕(はら)む大檣の帆をすら降さば、船は停止せぬまでもその進行緩(ゆるや)かにならん、進行の緩かとなるは、それだけ余の死期の遅くなるゆえと、余は仰いで大檣の帆を眺めしが、帆は高くして張り切るばかり、帆綱さえ激しく檣桁(ほげた)に巻きつきたれば、元来水夫にはあらぬ余の、いかでかこの大暴風(おおあらし)に帆を降す事を得べき、熟練せる水夫といえども、この場合檣(ほばしら)の上一間以上昇らば、魔神のごとき疾風に吹飛ばされて海中に落ちん、かかる疾風に追われて、船はいまじつに想像する事も出来ぬ速力にて走りおるなり、走ると云わんよりは飛べるなり、天空を飛べるか海上を走れるかほとんど分らず、泡立つ波、舞いあがる水煙はあたかも雲ににたり。


      十

 時にたちまち見る、暗憺たる海上に一道の光ゆらゆらと漂うを、オオ光! 光! この場合光ほど懐かしきものはなし、あれは太陽がふたたび[#「ふたたび」は底本では「ふただび」]我が眼前に現われしかと見直せば、何時の間にかその光は波間に消えて跡もなし、これ南極にときどき現われると云う、海上の燦火(ホスポラス)ならん、余はもはや絶望の声も出でず、かかる間にも船の走る事はますます速く、船の進むにしたがい寒気はいよいよ激しく我身に迫る、余はついにたえずふたたび船底に逃げこみしが、余の腹は飢えたりといえどももはや食を取らんとは思わず、ただちに船尾の倉庫に駆(か)けつけ、あくまで着たるが上にもさらに毛布を重ねたり、されどなお寒さは凌(しの)ぐあたわず、一刻々々あたかも時計の針の刻み込むごとく寒気の増しゆくは、船の一刻々々大氷山に近づくゆえならん、その寒さの増すにしたがい、余はかたわらに、積まれたる毛布を取って、十分に一枚、九分に一枚、八分に一枚、ついには三分間に一枚ずつ重ね、数十枚の毛布(けっと)を着尽したり、今は着るべきものもあらず、身はさながら毛布の山に包まれしがごとく、身動きも出来ずなったれど、寒さはなおやまず、いな、以前よりも激しき速度をもって増し来る、肉もちぎれるようなり、骨も凍るようなり、オオこの寒さをいかにして忍ばんと、余は堪えがたき苦痛に、狂うがごとくそのへんを走り回りしが、足はいま中部船底より船首船尾に至らんとせし一刹那なり、あたかも全船砕くるごとき響きとともに、船は急に停止せり、続いてビリビリと船の何物にか乗りあぐる音、波の甲板に打ちあぐる音、風の檣(ほばしら)と闘う音、悽愴(せいそう)とも何んとも云うべからず、余は恐怖のために一時気絶せんとせしが、かくてあるべきにあらず、船の震動ようやく収まりし時、恐る恐る船底より甲板に這い出でて見れば、こはそもいかにこはいかに、前面に天をおおうがごとく聳立(そばた)つは一大氷山なり、余の乗れる船はついに地球の果に達し、今しもこの一大氷山の一角に乗りあげしなり、万事休す! 余は思わず甲板上に身を投げて慟哭せり、されど泣けばとていかでかこの悲境より免るるをえん、しばらくたって余はふたたび甲板上に立ちあがりしに、今は地球の果に来りて、大氷山の陰になりしためにや、風も何時か吹きやみて、船が氷山の一角に乗りあげし時、その余響を受けて荒れまわりし激浪怒濤も、次第々々に静かになり、四辺は急にシーンとせり、人の恐るる地球の果、人間とては余の他には一人もなく、鳥もおらず、獣もおらず、魚すらもおらず、実にこの天地間にあって、何の物音も聴えぬと云うほど物凄き事はなし、余は寂寥のためにまず気死(きし)せんとせしが、ようやく気を取直してそろそろ四辺を見まわすに、天地間の暗き事依然として異らざりしか、その暗き間に、余は忽然として一大怪物を見出せり、何等の怪! 何等の奇! 怪物は余が帆船の右舷とほとんど触れんばかりに相列び、その動かざる事山のごとく、その形もまた巨山(おおやま)のごとき黒き物なり、大氷山か? 大氷山か? あらず、大氷山ならば白きはずなり、余は怪訝(いぶかり)にたえず、眼を皿のようにして見詰めしが、暗々陰々(あんあんいんいん)として到底その正体を見究むるあたわず、かかる間にも寒気はますます加わり、もしこのままにてなお十分間を過さば、余はついに凍え死ぬべし、ああいかにしてこの寒さを防(ふせ)がん、数十枚の毛布はすでに着尽したり、もはや着るべきものは一枚もあらず、余は血走る眼(まなこ)に四方を見まわせしが、フト一策の胸に浮ぶやいなや、狂獣のごとく走って船底に飛び降り、いまなお消え残る一個の船燈を取るより早く、燈を砕き油を船中に振撒(ふりま)いて火を放てり、悪魔の舌のごとき焔は見る間に船中を這いまわり、続いて渦巻く黒煙とともに猛火は炎々と立ち昇る、余は甲板上に飛出したり、オオ余は我船を焼けり、我船を焼けり、もし地球の果よりふたたび人間世界に帰らんとするならば、この船のほか頼むべき物なきに、ついにこの船を焼けり、余は寒さにたえずして余の生命を焼けるなり、かく心付(こころづ)くとともに、余はあわててその火を消さんとせしが、この火を消さば、余はただちに凍えて死なん、この火のある間がすなわち余の生存期間なり、余の身体はようやく暖かくなれり、されど余の胸のうちは苦悶のために焦(こ)げるようなり、とかくする間に火は船尾の方より甲板上に燃え抜けたり、余は夢中に船尾より船首に向って走る、火はあたかも余の後を追うよう、見る間に甲板上に燃え拡がれり、もはや行くに処なし、寒気のために凍死(こごえし)なんとせし余は、今や猛火のために焼死なんとするなり、余は天に叫べり地に哭(な)けり、眼は独楽(こま)のごとく回転して八方を見まわすに、船を焼く火の光高く燃えあがるにしたがい、暗黒なりし天地もようやく明るくなり、たちまち余の眼に入りしは彼の一大怪物の正体! 炎々天を焦す深紅の焔に照らしてよく見れば、そは古色蒼然たる一種不可思議の巨船なりき、まったく近世においては見るあたわざる古代風の巨船なりき、思うに余の帆船(ほまえせん)と同じようなる運命にて、何時の頃かこの地球の果に押し流されしものならん、今は船中ことごとく氷にとざされて、その動かざる事あたかも巨山のごとし、余は疑えりあやしめり、されどその間にも火勢はますます激しく、余の帆船は今や全部一団の火とならんとす、躊躇せばただちに焼け死なん、余は前後を考うる遑(いとま)もなく、船首甲板の尖端より身を跳らし、ほとんど舷に接せる彼の怪物――一大巨船の上に飛び乗れり、驚くべし! 余は彼の船上に飛び乗りただちに船内に走入って見るに、その船内の華麗(うるわ)しき事あたかも古代の王宮のごとく、近世の人は夢想する事も出来ぬ奇異の珍宝貨財(ちんぽうかざい)眼も眩(げん)するばかりにて、その間には百人の勇士を右に、百人の美人を左に、古代の衣冠を着けたる一人の王は、端然として坐しいたり、余は跳上(おどりあが)って喜べり、オオ生ける人! 生ける人! と、余りの懐かしさにたえずその前に走り寄れば、こはそもいかにこはいかに、彼等はことごとく生ける人にあらず、笑いを含めるあり、六ヶ敷き顔せるありといえども、すべてこれ死してより幾千年をへたるにや、その全身はあたかもミイラのごとく化石しおれり、いな、ミイラにもあらず、化石にもあらず、また凍結せしものとも思われず、このへん地球の果の不可思議なる大気の作用にて、彼の巨船中のものはただに人間のみならず、珍宝も貨財もすべてあらゆる物、昔の形と少しも異(かわ)る処なく、実に美わしき一種の固形体と化して残りおるなり、されど余はそれらの物を眺めおるうちに、真に名状すべからざる寂寞を感じたり、寂寞はやがて恐怖と化せり、もはや長く船内に留まるあたわず、逃ぐるように巨船の甲板上に出て見れば、余の帆船はすでにことごとく一団の火焔となり、火勢はその絶頂を過ぎてこれより漸々(ぜんぜん)下火にならんとす、余は呆然として船首より船尾へと走りしが、炎々(えんえん)と閃めく火光にふとこの巨船の船尾を見れば、そこには古色蒼然たる黄銅をもって、左の数字を記されたり。

『瑠璃岸国の巨船』

『オオ、何等の怪事ぞ!』と余は絶叫せり、余は学者にあらねば詳しき事は知らねど、かねて耳にせる事あり、これ世界の歴史がなお黒幕におおわれたりし時代、アフリカ西岸に古代の文明を集めたる瑠璃岸国のある好奇(ものずき)なる国王が、世界を経めぐらんとの望みを起して一大巨船を造り、百人の勇士と百人の美人と、その当時にあらゆる珍宝貨財とを乗せて本国を発せしが、南太平洋に乗りいりし後まったく行方不明となり、いまなお一大疑問を世界に遺(のこ)せりと云うが、今日余がここに見るこの巨船は、その瑠璃岸国の巨船にはあらざるか、余は数千年以前の巨船がいかなる理由によりて、いまなお現存せるやをしらずといえども、ここに現存せる事だけは事実なり、これには科学上の不可思議なる理由あらん。もしこれが果して瑠璃岸国の巨船なりとせば――嗚呼余は学者にあらざる事を憾(うら)む――この船の発見がいかに古代の文明を今日の世界に紹介し、いかに多くの利益を現世紀以後の学者社会に貢献するかを――されどかかる事は云うだけ無益なり、余は今にもこの世を去るべき身なり、いかにしてもふたたび人間社会に帰るあたわざる身なり、余の乗り来りし帆船(ほまえせん)の燃ゆる火焔の消ゆるとともに、余はこの地球の果においてただちに凍死(こごえし)なん、いな瑠璃岸国の国王並びに勇士美人のごとく、一種異様なるミイラとなって空(むな)しく残らん、今や余の魂は飛び腸(はらわた)は断たんとす、せめてはこの奇怪事を人間世界に知らしめんとて、余はおぼつかなくも鉛筆を取り出し、数葉の黄紙にこの事を記す、余の文は拙(せつ)なり、されど万一にもこの秘密にして何時か人間世界に[#「人間世界に」は底本では「人関世界に」]現わるる事あらば、世の学者諸君よ、願わくは死を決してこの南極に探険船を進めよ、じつに世界の一大秘密はここに伏在せるなり、かく記せる間に火焔(ほのお)ははや消えんとす、余の脚は爪先よりすでに凍り始めたり、手の指ももはやきかずなれり、これにて筆を止めん、幸いに余のポケットには今なお残れる一瓶のビールあれば、余はそのビールを末期(まつご)の水として飲み、快くこの世を去らん、しこうしてその空瓶にはこの一書を封じて海中に投ずるなり、もしこの瓶氷塊(ひょうかい)にも砕けず、海底にも沈まず――オー、オー、オー、火焔はすでに消えたり、もはや一分の猶予もなし、一字も記すあたわず、これにてさらば。

 以上はコルテス博士がポルトガルの海岸にて拾上(ひろいあ)げし、不思議なる瓶中(びんちゅう)より出でし不思議なる書面なり、記者はもはや多く記さず、賢明なる読者諸君は、なにゆえに近頃ヨーロッパの学者社会より、幾度の失敗にも懲りず、しばしば不思議なる南極探検船の派遣せらるるか、その秘密をば知りたもうべし。


底本:「日本SF古典集成〔〕」ハヤカワ文庫JA、早川書房


   1977(昭和52)年7月15日発行

初出:「中学世界」博文館

   1905(明治38)年1月号

入力:田中哲郎

校正:山本弘子

2009年4月30日作成

青空文庫作成ファイル:

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●表記について

[#…]は、入力者による注を表す記号です。
「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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