ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ


     二 怪しき二人に関する初稿

 捕えられた鼠(ねずみ)はきわめて弱々しかった。しかし猫(ねこ)はやせた鼠をも喜ぶ。

 一体そのテナルディエ夫婦はいかなる人物であったか?

 ここでまずそれについて一言費やしておこう。そして後になってこの稿を完(まっと)うすることにしよう。

 この二人は、成り上がりの下等な人々と零落した知識ある人々とからできてる不純な階級に属するものであって、そういう階級の人々は、いわゆる中流社会といわゆる下層社会との中間に位し、後者の欠点の多少を有するとともにまた前者のほとんどすべての欠点を有し、労働者の寛大な発情もなければ中流民の正直な秩序をも知らないのである。

 彼ら二人は、もし或る焔が偶然その心を温むることがあるとしても、またたやすく凶悪になるごとき下賤(げせん)な性質の者であった。女のうちには野獣のような性根があり、男のうちには乞食(こじき)のような素質があった。二人とも、悪い方にかけてはどんなひどいことでもやり得る性質だった。世には蟹(かに)のごとき心の人がいる。常に暗やみの方へ退き、人生において前に進むというよりもむしろ後ろに退き、自分の不具をますます大ならしめることに経験を用い、絶えず悪くなってゆき、しだいにますます濃い暗黒に染まってゆく。二人は男女とも、そういう魂の者であった。

 亭主のテナルディエの方は特に、人相家にとって厄介な人物だった。ちょっと見てもすぐにこいつは用心しなければいけないと思えるような人がいるものである。彼らはその両端が暗い。後方に不安を引きずり、前方に威嚇(いかく)を帯びている。彼らのうちには不可知なるものがある。将来何をなすかわからないように、また過去に何をしてきたかもわからない。その目付きのうちにある影で、それとわかるのである。彼らが一語発するのを聞き、一つの身振りをするのを見ただけで、その過去の暗い秘密とその未来の暗い機密とを見てとることはできる。

 このテナルディエは、その言うところを信ずるならば、兵士であった。自分では軍曹だったと言っていた。たぶん一八一五年の戦争に出て、相当勇ましく戦ったらしい。果してどうであったかは、後に述べることにしよう。飲食店の看板はその軍功の一つを示したものであった。彼は自分でそれを書いたのである。何でもちょっとはやることができた、もとより上手ではなかったが。

 ちょうど古いクラシックの小説が、クレリーの後にロドイスカとなってしまい、まだ高尚ではあったがしだいに卑俗になり、ド・スキュデリー嬢からバルテルミー・アドー夫人に堕(おと)し、ド・ラファイエット夫人からブールノン・マラルム夫人へ堕し、そしてパリーの饒舌(おしゃべり)な女の恋情を焼き立て、なお多少郊外の方までも荒した時代であった。テナルディエの上さんは、ちょうどその種の書物を読むくらいの知識を持っていた。彼女はそれを自分の心の糧(かて)とした。貧しい頭脳をすっかりそれにおぼらした。そのため、まだ若かった時はなおさら、少し年取ってからも、亭主のそばで変に沈思的な態度を取るようになった。亭主の方がまた、かなり食えない奴(やつ)で、ようやく文法を学んだくらいの賤(いや)しい男で、野卑でありながらまた同時に狡猾(こうかつ)で、しかもピゴー・ルブランの猥※(わいせつ)[#「褻」の「陸のつくり」に代えて「幸」、276-17]な小説をよみながら、感情の方面のことやまた彼が気取って言うように「すべて性に関すること」においては、まじり気のないまったくの無骨者であった。上さんは彼よりも十四、五歳若かった。その後、愁(うる)わしげにほつれさした髪にも白いのが交じるようになり、令嬢パミーラから憎悪の神メゲラが解放される頃の年になると、彼女はもう下等な小説を味わった卑しい意地悪い女にすぎなかった。いったいばかなものを読めばきっとその害を受ける。彼女もまたその結果自分の長女をエポニーヌと名づけた。あわれな小さな次女の方はギュルナールと名付けられるはずだったが、デュクレー・デュミニルの小説から何かしらまねてきて、アゼルマとしか呼ばれなかった。

 しかしついでに言っておくが、洗礼名の混乱時代とも称し得るこの珍しい時代にあっては、何事も笑うべき下らないものではない。われわれが指摘しきたった空想的な要素の傍(かたわら)には、社会的風潮がある。今日、下流の小僧にアルチュールとかアルフレッドとかアルフォンズとかいう、しかつめらしい名前をつけ、子爵なんかが――なお子爵などというものがあるとすれば――トーマとかピエールとかジャックとかいう砕けた名前をつけることは珍しくはない。かく平民に「優雅な」名前をつけ貴族に田舎者の名前をつける転倒は、平等の一つの潮流にすぎない。新風潮の不可抗なる侵入は、他におけるがごとくそこにもある。その表面の不調和のもとには、重大な深い一事が潜んでいる。それはすなわちフランス大革命である。




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