ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ


     五 故障

 モントルイュ・スュール・メールとアラスとの間の郵便事務は、当時なお帝政時代の小さな郵便馬車でなされていた。それは二輪の車で、内部は茶褐色(ちゃかっしょく)の皮で張られ、下には組み合わせ撥条(ばね)がついており、ただ郵便夫と旅客との二つの席があるきりだった。車輪には、今日なおドイツの田舎(いなか)にあるような、他の車を遠くによけさせる恐ろしい長い轂(こしき)がついていた。郵便の箱は大きい長方形のもので、馬車の後ろについていてそれと一体をなしていた。その郵便箱の方は黒く塗られ、馬車の方は黄色に塗られていた。

 今日ではもうそれに似寄ったものもないほどのその馬車は、何ともいえないぶかっこうな体裁の悪いものだった。遠く地平線の道を通ってゆくのを見ると、たぶん白蟻(しろあり)という名だったと思うが、小さな胴をして大きい尻(しり)を引きずっている虫、あれによく似ていた。ただ速力はきわめて早かった。パリーからの郵便馬車が通った後、毎夜一時にアラスを出て、モントルイュ・スュール・メールに朝の五時少し前に到着するのだった。

 さてその夜、エダンを通ってモントルイュ・スュール・メールへやってきた郵便馬車が、町にはいろうとする時そこの町角で、反対の方向へゆく白馬にひかれた一つの小馬車につき当たった。中には一人の男がマントに身をくるんで乗っていた。小馬車の車輪はかなり強い打撃を受けた。郵便夫はその男に止まるように声をかけたが、男は耳をかさないで、やはり馬を走らして去って行った。

「馬鹿に急いでやがるな!」と郵便夫は言った。

 かく急いでいた男は、まったくあわれむべき煩悶(はんもん)のうちにもだえていたあの人にほかならなかった。

 どこへ行こうとするのか? 彼自らもそれを言い得なかったであろう。何ゆえにそう急ぐのか? 彼自ら知らなかった。彼はむやみと前へ進んで行ったのである。いずこへ? もちろんアラスへではあったが、しかしまたおそらく他の所へも行きつつあったのである。時々彼はそれを感じて、身を震わした。

 彼はあたかも深淵(しんえん)に身を投ずるがごとく暗夜のうちにつき進んだ。何かが彼を押し進め、何かが彼を引っ張っていた。彼のうちに起こってることは、だれもそれを語り得ないであろう。しかしやがてだれにもわかることである。生涯中少なくも一度はこの不可解な暗い洞窟(どうくつ)にはいらない者は、おそらくないであろう。

 要するに彼は、何も決心せず、何も決定せず、何も確定せず、何もなさなかったのだった。彼の本心の働きには何も決定的なものはなかったのである。彼は初めより一歩も出てはいなかった。

 何ゆえに彼はアラスへ行こうとしたのか?

 彼はスコーフレールの馬車を借りながら自ら言ったことをまた繰り返していた。「どんな結果をきたそうと、その事件を自らの目で見、自ら判断するに、不都合はあるまい。――いやそれはかえって用心深いやり方だ。どんなことになるか知らなければいけないのだ。――自分で観察し探査しなければ何も決定することはできないものだ。――遠くからながめると何事も大袈裟(おおげさ)に見えるものだ。ともかくも、どんな賤(いや)しい奴(やつ)かそのシャンマティユーを見たならば、自分の代わりにその男が徒刑場にやられても、自分の心はおそらくそう痛みはしないだろう。――なるほどそこにはジャヴェルと、自分を知ってる古い囚徒のブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユがいるだろう。しかし確かに彼らは自分を看破(みやぶ)ることはできまい。――ああ何という下らないことを考えてるんだ!――ジャヴェルの方はもう大丈夫だ。――それにあらゆる推測と仮定とはそのシャンマティユーの上に立てられている。そして推測と仮定ほど頑固(がんこ)なものはない。――でそこへ行っても何らの危険もないわけだ。」

「もちろんそれは喜ばしいことではない。しかし自分はすぐにそれから脱することができよう。――結局、自分の運命はいかに悪かろうと、自分はそれを自分の掌中(しょうちゅう)に握っている。――自分は今自ら運命の主人公である。」

 彼はそういう考えに固執していた。

 うち明けて言えば、心の底ではアラスへ行かない方を彼は望んだであろう。

 けれども、彼はやはりそこへ行こうとしたのである。

 考えにふけりながら、彼は馬に鞭(むち)をあてた。馬は一時間二里半の速度で正確によくかけていった。

 馬車が進むに従って、彼は自分のうちにある物が後退(あとしざ)りしているのを感じた。

 明方、彼は平野に出ていた。モントルイュ・スュール・メールの町は後方はるかになっていた。彼は白みゆく地平線をながめた。冬の夜明けのあらゆる冷ややかな物の象(すがた)が目の前を通過するのを、目には見ないで心で見つめた。朝にも夕のごとくその幻影がある。彼はそれらを目では見なかったが、しかし彼の知らぬまにほとんど肉体を通して、樹木や丘陵のその黒い映像は、彼の激越な魂の状態に何か陰鬱(いんうつ)な悲痛なものを加えさした。

 所々に往来の傍(かたわら)に立っている一軒家の前を通るごとに、彼は自ら言った。「あの中に安らかに眠っている人もある!」

 馬の足並みや馬具の鈴や路上の車輪は、静かな単調な音を立てていた。それらのものは、心の喜ばしい時には快いものであり、心の悲しい時には陰鬱(いんうつ)なものである。

 エダンに着いた時はもうすっかり夜が明けきっていた。彼は馬に息をつかせ麦を与えるために、ある宿屋の前に馬を止めた。

 馬はスコーフレールの言ったとおり、ブーロンネー産の小さな奴で、その特質として、頭と腹とが大きく首が短く、しかも胸が開き臀(しり)が大きく、脚(あし)はやせて細く、蹄(ひづめ)[#ルビの「ひづめ」は底本では「ひずめ」]は丈夫であった。姿はよくなかったが、頑丈(がんじょう)で強健だった。二時間に五里走って、背に一滴の汗も流していなかった。

 彼は馬車からおりなかった。ところが麦を持ってきた馬丁は急に身をかがめて、左の車輪を調べた。

「これでまだ遠方までいらっしゃるかね。」とその男は言った。

 彼はまだほとんど自分の瞑想(めいそう)のうちに沈んだまま答えた。

「なぜ?」

「遠くからいらっしゃったのかね。」と馬丁はまた言った。

「五里向こうから。」

「へえー。」

「へえーってどういうわけだ。」

 馬丁はまた身をかがめて、しばらく黙ったまま車輪を見ていたが、それから身を起こして言った。

「ですがね、これで五里の道を来るこたあできたろうが、これからはどうも半里とは行けませんぜ。」

 彼は馬車から飛びおりた。

「何だって?」

「なあに、旦那(だんな)も馬もよくまあ往来の溝(みぞ)にもころげ込まねえで、五里もこられたなあ不思議だ。まあ見てごらんなさるがいい。」

 なるほど車輪はひどくいたんでいた。郵便馬車との衝突のために、車輪の輻(や)が二本折れ、轂(こしき)がゆがんで螺旋(ねじ)がきいていなかった。

「おい、この近くに車大工はいないか。」と彼は馬丁に言った。

「ありますとも。」

「連れてきてもらえまいかね。」

「すぐ向こうにおるですよ。おーい。ブールガイヤール親方!」

 車大工のブールガイヤール親方は、戸口の所に立っていた。彼はやってきて車輪を調べたが、外科医が折れた足を診(み)る時のように顔をしかめた。

「すぐにこの車輪を直してもらうことができようか。」

「ええ旦那(だんな)。」

「いつ頃また出かけられるだろうね。」

「明日(あした)ですな。」

「明日!」

「十分一日は手間が取れますよ。旦那は急ぐんですか。」

「大変急ぐんだ。遅くも一時間したらまた出かけなくちゃならないんだ。」

「そいつあだめですぜ旦那。」

「いくらでも金は出すが。」

「だめです。」

「では、二時間したら?」

「今日中はだめです。二本の輻(や)と轂(こしき)とを直さなきゃあなりません。明日までは出かけられませんぜ。」

「明日までは待てない用なんだ。ではこの車輪を直さないで外のと取り換えたらどうだろう。」

「そんなこたあ……。」

「君は車大工だろう。」

「そうには違いねえんですが。」

「わしに売ってもいい車輪があるだろう。そうすればすぐに発(た)てるんだ。」

「余りの車輪ですか。」

「そうだ。」

「旦那(だんな)の馬車に合うような車輪はありません。二つずつ対(つい)になっていますからな。車輪をいい加減に二つ合わせようたってうまくいくもんじゃありません。」

「それなら、一対売ってくれたらいいだろう。」

「旦那、どの車輪でも同じ心棒に合うもんじゃありません。」

「が、まあやってみてくれないか。」

「むだですよ、旦那。私(わたし)ん所には荷車の車輪きり売るなあありません。なんにしてもここは田舎(いなか)のことですからな。」

「ではわしに貸してくれる馬車はないかね。」

 親方は彼の馬車が貸し馬車なのを一目で見て取っていた。そして肩をそびやかした。

「貸し馬車をそんなに乱暴にされちゃあ! 私んところにあったにしろ旦那には貸せませんな。」

「では売ってくれないか。」

「無(ね)えんですよ。」

「なに、一つもない? わしはどんなんでも構わないんだが。」

「なにしろごく田舎(いなか)のことですからな。ただ一つ貸していいのがあるにはあるですが。」と車大工はつけ加えた。「古い大馬車で、町の旦那(だんな)んです。私が預っているですが、めったに使ったこたあありません。貸してもいいですよ。なにかまやしません。ただ旦那に見つからねえようにしないと。それに大馬車だから、馬が二頭いるんですが。」

「駅の馬を借りることにしよう。」

「旦那はいったいどこへ行くんですかね。」

「アラスへ。」

「そして今日向こうに着きたいというんですな。」

「もちろんだ。」

「駅の馬で?」

「行けないことはなかろう。」

「旦那は明日(あした)の朝の四時に向こうに着くんじゃいけませんか。」

「いけないんだ。」

「ちょっと申しておきますがね、駅の馬で……。いったい旦那には通行券はあるんでしょうな。」

「ある。」

「では、駅の馬で、それでも明日しかアラスへは着けませんぜ。ここは横道になってるんです。それで駅次馬(えきつぎうま)は少ししかいないし、馬はみな野良(のら)に出てます。ちょうどこれから犂(すき)を入れる時だから馬がいるんです。どこの馬も、駅のもなにもかも、そっちに持ってゆかれてるんです。一頭の駅次馬を手に入れるには、まあ三、四時間は待つですな。それに、駆けさせらりゃあしません。上り坂も多いですからな。」

「それでは、わしは乗馬で行こう。馬車をはずしてくれ。この辺に鞍(くら)を売ってくれる所はあるだろう。」

「そりゃああります。だがこの馬に鞍が置けますかね。」

「なるほど。そうだった。この馬はだめだ。」

「そこで……。」

「なに村で一頭くらい借りるのがあるだろう。」

「アラスまで乗り通せる馬ですか。」

「そうだ。」

「この辺にあるような馬じゃだめです。第一旦那(だんな)を知ってる者あねえから、買ってやらなくちゃ無理です。ですが、売るのも貸すのも、五百フラン出したところで千フラン出したところで、見つかりゃあしませんぜ。」

「いったいどうしたらいいんだ。」

「まあ一番いいなあ、私に車を直さして明日(あした)出立なさるのですな。」

「明日では遅くなるんだ。」

「ほう!」

「アラスへ行く郵便馬車はないのか。いつここを通るんだ。」

「今晩です。上りも下りも両方とも夜に通るんです。」

「どうしてもこの車を直すには一日かかるのか。」

「一日かかりますとも、十分。」

「二人がかりでやったら?」

「十人がかりでも同じでさ。」

「繩(なわ)で輻(や)を縛ったら?」

「輻はそれでいいでしょうが、轂(こしき)はそういきません。その上(たが)もいたんでます。」

「町に貸し馬車屋はいないのか。」

「いません。」

「ほかに車大工はいないのか。」

 馬丁と親方とは頭を振って同時に答えた。

「いません。」

 彼は非常な喜びを感じた。

 それについて天意が働いていることは明らかであった。馬車の車輪をこわし、途中に彼を止めたのは、天意である。しかも彼はその最初の勧告とでもいうべきものにすぐ降伏したのではなかった。あらゆる努力をして旅を続けようとした。誠実に細心にあらゆる手段をつくしてみた。寒い季節をも疲労をも入費をも、意に介しなかった。彼はもはや何ら自ら責むべきところを持ってはいなかった。これ以上進まないとしても、それはもはや彼の責任ではなかった。それはもはや彼の罪ではなかった。彼の本心の働きではなく、実に天意のしからしむるところであった。

 彼は息をついた。ジャヴェルの訪問いらい初めて、自由に胸いっぱいに息をした。二十時間の間心臓をしめつけていた鉄の手がゆるんできたような思いがした。

 今や神は彼の味方をし、啓示をたれたもうたように、彼には思えた。

 すべてでき得る限りのことはなしたのだ、そして今ではただ静かに足を返すのほかはない、と彼は自ら言った。

 もし彼と車大工との会話が宿屋の室の中でなされたのであったら、そこに立会った者もなく、それを聞いた者もなく、事はそのままになっただろう。そしておそらく、われわれがこれから読者に物語らんとするできごとも起こらなかったろう。しかしその会話は往来でなされたのだった。往来の立ち話は、いつも必ず群集をそのまわりに集めるものである。外から物事を見物するのを好む者は常に絶えない。彼が車大工にいろいろ尋ねている間に、行き来の人たちが二人のまわりに立ち止まった。そのうちの人の気にもとまらぬ一人の小さな小僧が、しばらくその話をきいた後、群集を離れて向こうに駆けて行った。

 旅客が前述のように内心で考慮をめぐらした後、道を引き返そうと決心したちょうどその時に、その子供は戻ってきた。彼は一人の婆さんを伴っていた。

「旦那(だんな)、」と婆さんは言った、「倅(せがれ)が申しますには、旦那は馬車を借りたいそうでございますね。」

 子供が連れてきたその婆さんの簡単な言葉に、彼の背には汗が流れた。自分を離した手がやみの中に後ろから現われて、自分を再びつかもうとしているのを、彼は目に見るような気がした。

 彼は答えた。

「そうだよ、貸し馬車をさがしてるところなんだが。」

 そして彼は急いでつけ加えた。

「しかしこの辺には一台もないよ。」

「ございますさ。」と婆さんは言った。

「どこにあるんだい。」と車大工は言った。

「私どもに。」と婆さんは答えた。

 旅客は慄然(りつぜん)とした。恐るべき手は再び彼を捕えたのだった。

 婆さんはなるほど一種の籠(かご)馬車を物置きに持っていた。車大工と馬丁とは、旅客が自分たちの手から離れようとしているのに落胆して、言葉をはさんだ。

「ひどいがた馬車だ。――箱がじかに心棒についてやがる。――なるほど中の腰掛けは皮ひもでぶら下げてあるぜ。――雨が降り込むぜ。――車輪は湿気にさびついて腐ってるじゃねえか。――あの小馬車と同じにいくらも行けるものか。まったくのがたくり馬車だ。――こんなものに乗ったら旦那(だんな)は災難だ。」――などと。

 なるほどそのとおりであった。しかしそのがた馬車は、そのがたくり馬車は、その何かは、ともかくも二つの車輪の上についていた、そしてアラスまでは行けるかも知れなかった。

 旅客は婆さんの言うだけの金を渡し、帰りに受け取るつもりで小馬車の修繕を車大工に頼んで、そのがた馬車に白馬をつけさせ、それに乗って、朝から進んできた道に再び上った。

 馬車が動き出した時彼は、自分の行こうとしてる所へは行けないだろうと思って先刻ある喜びの情を感じたことを、自ら認めた。彼は今その喜びの情を一種の憤怒をもって考えてみて、それはまったく不合理だということを認めた。何ゆえにあとに戻ることを喜ばしく感じたのか? 要するに彼は勝手に自らその旅を初めたのではなかったか。だれも彼にそれを強(し)いたのではなかったのだ。

 そしてまた確かに、彼が自ら望んでることのほかは何も起こるはずはないのだ。

 エダンを去る時に、彼はだれかが呼びかける声を聞いた。「止めて下さい! 止めて下さい!」彼は勢いよく馬車を止めた。そのうちにはなお、希望に似た何か熱烈な痙攣的(けいれんてき)なものがあった。

 彼を呼び止めたのは婆さんの子供だった。

「旦那(だんな)、」と子供は言った、「馬車をさがして上げたなあ私だが。」

「それで?」

「旦那は何もくれないだもの。」

 だれにも少しも物をおしまなかった彼も、その請求を無法なほとんど憎むべきもののように感じた。

「ああそれはお前だった。」と彼は言った。「だがお前には何もやれないぞ!」

 彼は馬に鞭(むち)をあてて大駆けに走り去った。

 彼はエダンでだいぶ時間を失っていた。彼はそれを取り返そうと思った。小さな馬は元気に満ちて、二頭分の力で駆けていた。しかし時は二月で、雨の後でさえあったので、道は悪くなっていた。その上こんどは小馬車ではなかった。車は鈍く重く、かつ多くの坂があった。

 エダンからサン・ポルまで行くのに四時間近くかかった。五里に四時間である。

 サン・ポルに着いて彼は、見当たり次第の宿屋で馬をはずし、それを廐(うまや)に連れて行った。スコーフレールとの約束もあるので、馬に食物をやってる間秣槽(かいおけ)のそばに立っていた。そして悲しいごたごたしたことを考えていた。

 宿屋の主婦が廐(うまや)にやってきた。

「旦那(だんな)はお食事はいかがです。」

「なるほど、」と彼は言った、「ひどく腹がすいてる。」

 彼は主婦について行った。主婦は元気な美しい顔色をしていた。彼を天井の低い広間に案内した。そこには卓布の代わりに桐油(とうゆ)をしいた食卓が並んでいた。

「大急ぎだよ。」と彼は言った。「わしはすぐにまた出立しなければならない。急ぎの用だから。」

 ふとったフランドル人の女中が、大急ぎで食器を並べた。彼はほっとしたような気持でその女をながめた。

「何だか変だと思ったが、なるほどまだ食事もしていなかったのだ。」と彼は考えた。

 食物は運ばれた。彼は急いでパンを取って一口かじった。それから静かに食卓の上にパンを置いて、再びそれに手をつけなかった。

 一人の馬方が他のテーブルで食事をしていた。彼はその男に向かって言った。

「どうしてここのパンはこうまずいだろうね。」

 馬方はドイツ人で、彼の言葉がわからなかった。

 彼は馬の所へ廐に戻って行った。

 一時間後に、彼はサン・ポルを去ってタンクの方へ進んでいた。タンクはもうアラスから五里しかへだたっていなかった。

 その道程の間彼は、何をなし、何を考えていたか? 朝の時と同じく、樹木や、茅屋(ぼうおく)の屋根や、耕された畑や、道を曲がるたびに開けてゆく景色の変化を、ながめていた。人の心は時として、ただ惘然(ぼうぜん)と外界をながめることに満足し、ほとんど何事をも考えないことがある。しかし、かく種々の事物を初めて見、しかもそれで見納めとなることは、いかに悲しいまた深刻なことであろう! 旅をすることは、各瞬間ごとに生まれまた死ぬることである。おそらく、彼はその精神の最も空漠(くうばく)たる一隅(ぐう)において、移り変わりゆく眼界と人間の一生とを比べてみたであろう。人生のあらゆる事物は絶えず吾人(ごじん)の前を過ぎ去ってゆく。影と光とが入れ交じる。眩惑(げんわく)の輝きの後には陰影が来る。人はながめ、急ぎ、手を差し出し、過ぎゆくものをとらえんとする。各事変は道の曲がり角である。そして突然人は老いる。ある動揺を感ずる。すべては暗黒となる。暗い戸が開かれているのがはっきりと見える。人を引いていた人生の陰暗な馬は歩みを止める。そして人は覆面の見知らぬ男が暗やみのうちにその馬を解き放すのを見る。

 旅客がタンクの村にはいるのを学校帰りの子供らが見たのは、もう薄暗がりの頃だった。一年の中でも日の短い季節であった。彼はタンクに止まらなかった。彼がその村から出た時、道に砂利を敷いていた道路工夫が、頭をあげて言った。

「馬がだいぶ疲れてるようだな。」

 あわれな馬は実際もう並み足でしか歩いていなかった。

「アラスへ行きなさるのかね。」と道路工夫はつけ加えた。

「そうだ。」

「そういうふうじゃ、早くは着けませんぜ。」

 彼は馬を止めて、道路工夫に尋ねた。

「アラスまでまだいかほどあるだろう?」

「まあたっぷり七里かな。」

「どうして? 駅の案内書では五里と四分の一だが。」

「ああお前さんは、」と道路工夫は言った、「道普請中なのを知りなさらねえんだな。これから十五分ほど行くと往来止めになっている。それから先は行けませんぜ。」

「なるほど。」

「まあ、カランシーへ行く道を左へ取って、川を越すだね。そしてカンブランへ行ったら、右へ曲がるだ。その道がモン・サン・エロアからアラスへ行く往来だ。」

「だが夜にはなるし、道に迷わないとも限らない。」

「お前さんはこの辺の者じゃねえんだな。」

「ああ。」

「それに方々に道がわかれてるでね。……まてよ、」と道路工夫は言った、「いいことを教えてあげよう。お前さんの馬は疲れてるで、タンクへ戻るだね。いい宿もありますぜ。お泊まんなさい。そして明日(あした)アラスへ行くだね。」

「今晩行かなくちゃならないんだ。」

「ではだめだ。それじゃあやはりタンクの宿へ行って、なお一頭馬をかりるだね。そして馬丁に道を案内してもらうだね。」

 彼は道路工夫の助言に従って、道を引き返していった。そして三十分後には、りっぱな副馬(そえうま)をつけて大駆けに同じ所を通っていた。御者だと自ら言ってる馬丁は、馬車の轅(ながえ)の上に乗っていた。

 それでも彼はなお急ぎ方が足りないような気がした。

 もうまったく夜になっていた。

 彼らは横道に進み入った。道は驚くほど悪くなった。馬車はあちこちの轍(わだち)の中へ落ちこんだ。彼は御者に言った。

「どしどし駆けさしてくれ。酒代(さかて)は二倍出す。」

 道のくぼみに一揺れしたかと思うと、馬車の横木が折れた。

「旦那(だんな)、」と御者は言った、「横木が折れましたぜ。これじゃ馬のつけようがありません。この道は夜はひどいですからな。旦那がこれからタンクへ戻って泊まるんなら、明日(あした)は早くアラスへ行けますが。」

 彼は答えた。「繩(なわ)とナイフはないかね。」

「あります。」

 彼は一本の木の枝を切り、それを横木にした。

 それでなお二十分費やした。しかし彼らはまた大駆けに走っていった。

 平野はまっくらだった。低い狭い黒い靄(もや)が丘の上をはって、煙のように丘から飛び散っていた。雲のうちにはほの白い明るみがあった。海から来る強い風は、家具を動かすような音を遠く地平線のすみずみに響かしていた。目に触れるものすべては、恐怖の姿をしていた。暗夜の広大な風の息吹(いぶ)きの下にあって、何物か身を震わさないものがあろうか!

 寒さは彼の身にしみた。彼は前日来ほとんど何も食べていなかった。彼は漠然(ばくぜん)と、ディーニュ付近の広野のうちを暗夜に彷徨(ほうこう)した時のことを思いだした。それは八年前のことだったが、昨日のことのように思われた。

 遠い鐘楼で時を報じた。彼は馬丁に尋ねた。

「あれは何時だろう。」

「七時です、旦那(だんな)。八時にはアラスに着けます。もう三里しかありません。」

 その時に彼は初めて次のようなことを考えてみた。どうしてもっと早く考えおよぼさなかったかが自ら不思議に思えた。「こんなに骨折ってもおそらくは徒労に帰するかも知れない。自分は裁判の時間さえ知ってはいない。少なくともそれくらいは聞いておくべきだった。何かに役立つかどうかもわからないで、前へばかり進んでゆくのは、狂気の沙汰だ。」それから彼は頭の中で少し計算し初めた。「通例なら重罪裁判の開廷は午前九時からである。――あの事件はたぶん長くはならないだろう。――林檎(りんご)窃盗の件はすぐに済むだろう。――後(あと)はただ人物証明の問題だけだ。――四、五人の証人の陳述があり、弁護士が口をきく余地は少ない。――すべてが終わってから自分はそこに着くようになるかも知れない!」

 御者は二頭の馬に鞭(むち)を当てていた。彼らはもう川を越して、モン・サン・エロアを通りこしていた。夜はますます深くなっていった。




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